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神さまなんて大嫌い!⑧

 【汪楓白おうふうはく、男色の危機に晒されるの巻】



 そんなことになってるなんて、まるで知らない僕は今、最悪の状況に身を置いていた。

「……はぁ」

「……ヤレヤレだな」

 ここは、百鬼討伐隊ひゃっきとうばつたい本陣『白宿つくもじゅく冥府曼荼羅堂めいふまんだらどう』の、暗く冷たい石造りの地下牢。

 そこへ、隊員たちによって、手荒く放りこまれた僕と神々廻道士ししばどうしは、青息吐息であった。

 雨音が聞こえる。降り出したのか……まるで、僕の運命を悼む泪雨のようだな。

「チッ……どっかの阿呆のせいで、散々だぜ、まったく」

「えぇ、えぇ、阿呆のせいでねぇ……誰が、阿呆ですか!」

彪麼ひょうまのことに、決まってんだろ、阿呆!」

「あ、なるほど……って、今、僕に阿呆って云いましたよね」

「畜生、あいつ……瓢箪ひょうたんまで取り上げやがって! どうなっても知らんぞ!」

「ちょっと……僕の話、聞いてます?」

「やべぇ……鬼去酒きこしゅが切れそうだ」

「よかったじゃないですか。タマには酒気を抜いた方が、体のためですよ。大体、毎日毎日、浴びるほど、浸かるほど、溺れるほど呑み続けて、平気な方が不思議なんですからね」

「太平楽なこと、ほざいてんじゃねぇ! シラフになっちまうんだぞ!」

「なってくださいよ! 大体、この期に及んで酒って……太平楽はどっちですか!」

 ついに我慢の限界を超えた僕は、思わず口ごたえしてしまった。途端に――、

――ビタ――ンッ!

 張り手一発! い、今のは……かなり、き、効いた! うっ……クラクラ!

「じゃっかましい! 奴隷の分際で、この俺さまに、口ごたえばっかするようになりやがって! 生意気な青二才が、図に乗んじゃねぇ! いいから、酒だ! 酒持って来ぉい!」

 こりゃあ、完璧な酒乱だ!

 折角まとめた元結髷もとゆいまげは解き、長袍ちょうほうもしどけなく着崩し、あぐらをかいて大威張りするさまは、まさに暴君と呼ぶにふさわしい! これで道士だなんて、絶対に信じられないぞ!

「も、持って来られるワケ、ないでしょお! ここは百鬼討伐隊本陣の、牢屋敷ですよ!」

「黙れ。神の命令だ。持って来い」

「無理です」

 僕は、努めて冷静に、酒乱道士へ対応しようとした。

「無理ですむか! 奴隷なら、神の命令に従え!」

「神なら、自分でなんとかしなさいよ!」

「なにをっ……ムチャクチャ云うな!」

「あのね……どっちが、ですか!」

 互いにつかみ合い、罵り合う僕らのすぐそばで、その時、不意に咳払いが聞こえた。

「あ~、コホン」

「「……あ」」

 先客の存在に、まったく気づかなかった僕は、なんともバツが悪くて頭を下げた。

「どうも、すみません。ウチの神が、ご迷惑をおかけしてます」

「なんだ、その態度は! 俺さまをなめてやがんのか!」

「あなたの代わりに、先客へ謝ってるんじゃないですか!」

 もう、どうせ明日をも知れぬ身だ! こんな奴に、媚びへつらってられるか!

 二度と再び、下手になんて、出てやらないぞ! 暴力にだって、屈するもんか!

「なにやら、そちらの御仁ごじん……だいぶ、切羽詰まっとるらしいですな」

 ぬぅ――っと、暗がりから顔を出した壮年男は、髭もじゃ垢まみれの痩身で、どうにもスケベったらしい顔をしていた。初見の相手に失礼とは思うけど、本当にそうなんだモン。

 好色さが、ありありと満面に、にじみ出てるって云うか……とにかく、薄気味悪い。

「あぁん? なんだ、オッサン」

「どうぞ、お気になさらず。ただの癇癪ですから」

 僕は、その不潔な好色おじさんと、あまり関わりたくなかったので、神々廻道士を軽くなし、会話を終わらせようとした。無論、神々廻道士は、癇癪玉かんしゃくだまを破裂させたけどね。

「黙れ! デカチン色魔シロ!」

 また! 僕の品位を貶める! その呼び名だけは、嫌だったのに! こん畜生――っ!

 だが神々廻道士は、僕の憤慨などまるで意に介さず乱暴に押しのけると、不潔な好色おじさんへにじり寄った。ヒカヒカと鼻をうごめかせ、おじさんの臭いを嗅ぐ。臭そうだな。

おい、あんた……鬼去酒の匂いがするな。持ってるのか?」

「持っとるよ。ホレ、この通り……哈哈哈ハハハ

 不潔な好色おじさんは、ボロ布の貫頭衣かんとういの裾から、つやつやした酒瓢箪を取り出した。

 神々廻道士の目前にチラつかせ、彼の、飽くなき酒への欲望をあおり立てる。

「しかし、只では譲れんな」

「ふん、他人の足元見やがって……狙いはなんだ?」

 不潔な好色おじさんは、口端をいやらしくゆがめ、僕を指差した。しかも、小指で。

「……へ? 僕?」

「活きのいい白面はくめんの尻に、近頃ありついてなかったんでな」

 なに? どういうこと? え? え? えぇえっ!?

「なんだ。そんなことなら、貸してやる。だから、早く酒よこせ」

「ちょお――っと、待ったぁ――っ! 尻!? 尻って、なんですか!?」

「阿呆か。クソをひり出す穴に決まってんだろ」

「そういうことじゃなくて、ですね!」

 僕は顔面蒼白で、神々廻道士の襟首をつかんだ。

「ぐひひひひっ……可愛いのう」

 スルリ……と、僕の裾細袴すそぼそばかまの帯を、簡単に解き始める不潔な好色おじさん。

「嫌ぁ――――っ!」

 僕は全身総毛立ち、悪寒で肌理きめが粟立ち、必死で神々廻道士に助けをもとめた。

「女みてぇな悲鳴上げて、しがみつくんじゃねぇ!」

「嫌です! 嫌です! 嫌です! 嫌です! 嫌です! 嫌です! 嫌で……はぐっ!」

 腹を、またまた、また……殴られて、もう、息が、止まりそう。

「一回聞きゃあ、判んだよ! しつけぇな!」

 酒のために、弟子を売る!? それが人の、することか!?

 だけど、そうして僕が大人しくなった一瞬の隙に、不潔な好色おじさんは目にも止まらぬ早業で、僕の裾細袴を脱がし、下穿きまで引っ張り下ろし、無防備な尻をなでさすった。

 その上で、僕の尻を高々と持ち上げた。うげぇ――っ!

「心配要らんよ。わしはただ、憑坐よりましが欲しいだけ……ここから、脱出するためのな。用がすめば、すぐに出て往ってやるから、安心して尻を出せ。しばしの辛抱じゃ。ささ、はよう」

 初体験が、こんな不潔な好色おじさんだなんて、嫌だよぉ――っ!

 他のことなら、なんでもするから、それだけは勘弁してぇ――っ!

「きゃあぁぁあぁぁぁぁあっ! 助けて、神さまぁあぁぁぁぁあっ!」

 僕は尻の穴に思いっきり力をこめ、異物の侵入を命懸けでこばんだ。ところが――、

「……って、アレ?」

 僕は、スースー寒いだけで、他になんにも感じない尻を、不可解に思い、薄目を開けた。

 すると、不潔な好色おじさんの姿は、牢内のどこにも見えず……影も形もなくなっていた。つまり消えちゃったんだ! 僕は、ニタニタ笑う神々廻道士へ、恐る恐る聞いてみた。

「あの……い、今の、おじさんは?」

「てめぇのケツん中だろ」

「哈哈、まさか……ん? なんか、お腹が、モゾモゾする……ま、まさか! まさか!」

 僕は腹部の膨張感と、蠕動ぜんどう運動の激しさに、いよいよ懸念を増大させた。

 神々廻道士は、さも愉快げに僕を見、ただいまの現象について講釈し始めた。

「ありゃあな、鬼生虫きせいちゅうってんだ。人体の九穴きゅうけつ……女は十穴じゅっけつだな。そこから侵入し、そいつを意のままに操るって……まぁ、邪鬼の一種だ。下っ端の下っ端ってトコだな。心配すんな。なかなか出て来ねぇで、悪さ働くようなら、俺さまが引き出してやるからよ。哈哈」

 寄生虫……もとい、鬼生虫と聞いて、僕の背筋をまたしても悪寒が走った。

「鬼生虫……ひっ、ひぇえぇぇえっ! 今すぐ、取って! 取って! 取ってぇえっ!」

 僕は必死の形相で、神々廻道士の襟首にしがみつき、わめいた。神々廻道士は、僕の手を乱暴に払いのけ、面倒臭そうに押しやると、おじさんが残していった酒瓢箪をあおった。

「いちいちうるせぇな! お、こいつは上物じゃねぇか! やっぱ、鬼去酒は最高だぜ!」

 なんて無慈悲な……体内に、あんな不潔で、不気味で、スケベったらしい妖怪もどきが、侵入しているのかと思うと、僕はもう、おぞましくて、居ても立ってもいられないよぉ!

「そんなぁ、非道ひどいよぉ……うっぷ、なんか、吐き気が……それに、大の方も」

 突然の体調不良と、猛烈な便意に襲われて、僕は脂汗をかき始めた。

「クソか? てめぇ、どこまで他人に迷惑かける気だ? こんなせまい牢内で、くっせぇクソ漏らしやがったら、ただじゃおかねぇぞ! ケツの穴に、焼け火箸、突っこんだる!」

「誰のせいですか! あの……すみませぇん! かわやに往かせてくださぁい! うひっ!」

 そうこうする内にも、神々廻し道士は、持ち前の諧謔趣味かいぎゃくしゅみと、底意地の悪さを発揮して、僕の腹を容赦なく圧迫する。ちょっと! そんなことされたら、本当に漏らしちゃうじゃないか! やめてくれよ、莫迦ばか! 云ってることと、やってることが、矛盾しすぎだろ!

 だが、その時、地下牢の頑丈な鉄扉が開き、討伐隊員が二人、つかつかと入って来た。

 僕を指差し、声高に命令する。

「汪楓白! 出ろ!」

「は、はい! もう出そうで……え?」

えん隊長がお呼びだ! 早く出ろ!」

 隊員二名は、錠前を外し、鉄格子のせまい出入口を、僕のために開放してくれた。

 もしかして、釈放? いや……悪くすれば、拷問? うぅむ、後者の方が確率高しだな。

「じゃ、頑張って来いよ」

 神々廻道士は僕の背中を軽く叩き、笑って見送るつもりだ。けれど、戦々恐々と振り返った僕に対し、神々廻道士は突如、眉間にシワを寄せ、唇を真一文字に結び、うそぶいた。

「あ、あの……」

「但し、余計なこと、しゃべったら……」

「しゃべったら?」

 迫力みなぎる語気に、僕はおびえて生唾をゴクリと呑みこんだ。途端に、神々廻道士は破顔はがんし、鷹揚おうような態度で、さっきとは真逆の、不真面目で冗談めかしたセリフを投げて来た。

「……ま、いいか。思いっきり垂れ流して来い」

「哈、哈哈……冗談に、なってないよ」

 僕は、グルグルとうなる腹をかかえたまま、地下牢を出て、石段を昇り、幾重もの鉄扉や門戸をくぐり抜け、長い回廊を歩き、隊員二名に連行され、燕隊長の執務室へ向かった。

 途中、いよいよ切迫した僕は、「あの、厠に……」と、問いかけたが――、

「私語は慎め。隊長をお待たせするな」

「で、でも……今にも出そうで」

「我慢しろ」

「はい」

 それ以上、有無を云わさぬ隊員たちの強い語調に、僕はあきらめざるを得なかった。

 腹部と肛門に、ありったけの力をこめ、便意から気を逸らすよう心がけ、ついに立派な執務室の前に立った。けれど、いつまでつものやら……そう長くは、我慢できないぞ?

 ああ、最悪だ……この上、脱糞でもしようモンなら、もう僕の人生は、終わったも同然だ。

 だって、こんな主人公あり得ないでしょ! 誰が同調してくれるのさ!

「隊長、連れて来ました」

「入れ」

 軽く扉を叩き、合図する隊員。素っ気ない声音こわねで、応答する燕隊長。いよいよ、運命の時だ。啊、天帝君てんていぎみ……どうか、拷問だけは、されずにすみますよう、お守りください!

 僕は祈るような気持ちで、恐る恐る執務室の中へ、足を踏み入れた。

 整然とした広い室内の中央、さまざまな文献や書類が並ぶ、大きな机の前に立たされた僕は、緊張した面持ちで、曲彔きょくろくに座す《燕彪麼》隊長と向き合った。隊員二名は退室し、二人きりである。燕隊長は書類のひとつを手に取り、僕の顔と交互に見比べつつ、問いかけた。

「汪楓白……劫族こうぞく出身の劫初内ごうしょだい文官で、文士としてもワリと名が知れているらしいな」

「は、はい……」

 さすがは百鬼討伐隊。身元調査も、早い、早い。

「読んだぞ」

 燕隊長は、僕の書いた作品の一冊を取り出し、深いため息をついた。

「え? 読んでくれたんですか? 啊……でも、僕の作品って、極端に男性ウケが悪いんですよね……女々しいとか、くだらないご都合主義だとか、莫迦莫迦しくて読めないとか」

「うむ。はっきり云って、落胆した」

「そうでしょうねぇ……はぁ」

 はっきり云われてしまい、今度は僕が大きなため息をついた。

 予想はしてたけど……やっぱりなぁ、とくにこの手の武道家系には、最低の話だろう。

「これほどの名作を、世に送り出した天才文士が、よもや……あのような悪逆非道の人非人にんぴにんくみし、ともに許しがたい罪業を犯すとは……なんとも勿体ない! 落胆のきわみだ!」

 えぇ、えぇ、そうでしょうとも……ん? 名作? 天才文士?

「……はぁ!?」

 僕は一瞬の間を置き、素っ頓狂な声を発してしまった。

「なにか、理由があるのでしょう? あの男のことだ。先生の弱みをにぎって脅し、無理やり悪事に引きずりこんだのでしょう? 先生ほどの御方が……それ以外、考えられない」

「せ、先生!?」

 僕はあまりの衝撃に、猛烈な便意も忘れ、パチパチと目をしばたかせた。

 だって……この男らしい荒武者が、僕の作品の愛読者だなんて、とても信じられない!

 でも、あの目は……情熱に満ちたあの目は、僕の作品の愛読女性たちと、同じものだ!

「真実を教えてください。力になりますから」

「ほ、本当ですか!? 僕を、助けてくれますか!?」

 曲彔から立ち上がり、机越しに手を伸ばす燕隊長へ、僕はすがりついてしまった。

「無論です。先生のためなら、私はどんな手段を用いてでも、必ずや趙劉晏ちょうりゅうあんを……神々廻道士を、断罪してみせます! そして、あの憎き下衆男に、生き恥をかかせ、生き地獄を味わわせ、もう殺してくれと泣いて懇願するまで、散々に苦しめて……おっと、哈哈哈」

 いよいよ激情を過熱させ、息巻く燕隊長は、慌てて残忍なセリフの語尾を切り微笑んだ。

 要するに、僕を助けるうんぬんは二の次で、本当は過去の私怨を晴らしたいワケですね。

 なんか、この人も可哀そうだなぁ……。

「とにかく、先生の証言如何いかんで、あの下衆男に正義の鉄槌をくだすことができるのです! 先生の身の安全は、保障しますので、是非とも、ご協力のほど、よろしくお願いします!」

「は、はい! それは、もう! こちらこそ、よろしくお願いします!」

 燕隊長に、力強く手をにぎられ、僕は理由こそどうあれ、うれしくなった。
 ようやっと、味方ができたよ! これで、あのクソ莫迦道士の命令に、従わなくてすむようになるぞ!

「それでは早速だが、先生……あなたには我々討伐隊の、密偵になって頂きたい。そして、神々廻道士の秘密を探り、悪事の決定的な証拠をつかむのです。時に……現時点まで奴と一緒にいて、なにか気づいたことはありませんか? どんな些細なことでも結構ですから」

 燕隊長に問われるまま、僕は少々調子に乗って、神々廻道士の秘密や悪口を並べ立てた。

「そうですねぇ……まぁ、おかしな妖怪三匹を使役して」

「ええ」

「僕に、こんな忌々しい首輪を嵌めて」

「ほぉ」

「年がら年中、だらしなく鬼去酒を呑み続けて」

「ふむ」

「がめつくて、口うるさくて、乱暴で、短気で、悪逆で、冷酷で、自分勝手で……」

「先生も相当、苦労していらっしゃるようですな」

 こっくりとうなずく僕……が、急激な便意に襲われたのは、その時だった。

「おや、どうしました?」

「あ、あの……すみませんが、厠をお借りしても……」

「判りました。すぐ誰かに案内させましょう」

「い、いえ……教えて、頂ければ、一人で、いけます、から……」

 は、早くしてくれぇ! 今までとは比較になんないくらい、凄い便意なんだよぉ!

 お腹も、パンパンにふくれて来ちゃったし……ひぇえっ、なんて不格好!

「ここは入り組んでいて、迷いやすい。一人で動き回るのは、大変です」

「あっは、それは、ご親切に……でも、急いで、もらえると、ありがた……い!」

 僕は腹をよじり、肛門を手で押さえ、脂汗をかいて、足踏みした。ねぇ! この状態なの! 気づいてるんでしょ? 早くったら、早くして! それとも、ワザと焦らしてる?

「それに、軍部の主要拠点ですので、無闇に立ち入られては、都合が悪い場所もある」

「あっ……そ、そ……れ、は……たい、へ、んんっ!」

 だぁあっ! 説明なんか、どうでもいい!

 僕はじっとしておれず、腹と尻を押さえたまま、執務室を飛び出そうとした。
 この人の前で、漏らすのだけは嫌だ! せめて、外へ……だけど、もう、間に合わないぃいっ!

「あっ……あぁあっ! だ、ダメだ! 出る! 漏れちゃう!」

 情けない悲鳴を上げる僕に、瞠目した燕隊長。

「え? そんなに、切迫してらした? いや……ちがう、この妖気は……よもや!」

 すると燕隊長は、僕の目前へと回りこみ、大きくふくれ上がった腹部を一瞥いちべつ……直後!

「先生、失礼!」

――ドカッ!

「ふぐぅっ……」

 極限まで我慢していた腹へ、燕隊長から情け容赦ない一撃を喰らって、僕は前かがみにうずくまった。直後、僕の肛門をなにか異物が通過し、腹部の膨満感は一気に消え去った。

 お腹の出っ張りも、元通りに引っこんだ。ふぅ、すっきり……じゃない!

 あぁあっ、ついにやっちまったぁ!

 よりにもよって、百鬼討伐隊本陣の、隊長の執務室で、僕の作品の愛好者と判った途端に、大便を漏らすなんて、最低最悪じゃないかぁ! もう嫌だ、消えてしまいたい……と、泪で顔をゆがめ、頭をかかえながら、僕は、恐る恐る自分の足元後方へ、視線をやった。

 そこに、僕が見た黒いかたまりとは、勿論!

「うん……?」

 うん〇だと思った人、不正解。何者かの足でした。よかった、漏らしてないみたい!

 ん? それじゃあ……この足は誰の足? ヤケに立派な深沓ふかぐつをはいてるけど……え?

「貴様……どうやって、牢を出た!」

「いやぁ、尻を出たのさ。この子の」

 聞き覚えのある声音、口調……と、云うことは!

「まさか……不潔で好色なおじさん!?」

 ではなかった。

 僕の背後に突如、出現したのは、例の不潔で好色なおじさんでなく、総髪そうはつ浅葱色あさぎいろ水干すいかん姿の、凛々しくも見目麗しい美青年であった。誰なの!? 本当に、あんた誰なの!?

「牢内は、あんまり居心地が悪くてね。そろそろ、おいとまさせてもらうことにしたよ」

 総髪の美青年は、泪目で振り仰ぐ僕の肩を軽く叩き、意味深な目配せをした。

「ふざけるな! そんな勝手は絶対に許さん!」

「啊、心配無用だよ。今の密談は、決して他言しないから」

「黙れ! 牢内に戻らぬなら、この場で処刑してやる!」

 燕隊長は、段平刀だんびらがたなを抜き、総髪の美青年へ、すかさず斬りかかった。美青年は、僕の体を楯にして、鋭い切っ先をかわす。燕隊長の殺意は、僕の鼻先一寸のところで、辛うじて急停止する。僕は慌てて、右側へ移動し、二人の争いから逃れようとしたが、無駄だった。

 美青年も僕と一緒に右側へ移動し、隠し持っていた匕首あいくちを、僕の脇の下から、燕隊長めがけて繰り出したのだ。互いの凶器が、僕の体スレスレに交わり、激しい火花を散らす。

 ひぃ――っ! 好い加減にしてくれ! 僕を巻きこむなぁ――っ!

「討伐隊員を愚弄し、狼藉ろうぜきを働いた邪鬼! そんな奴を、先生は何故かばうのですか!」

「それは勿論、私と彼が割りない仲だからだよ。すぐに私を、受け容れてくれたものね」

「ちょっと! 莫迦なこと云わないでくれよ! いつ僕が、あんたを……うひゃあっ!」

 耳障りな刃音を執務室一杯に響かせて、繰り広げられる奇妙な剣劇。

 燕隊長の段平刀が、僕の袖口をつらぬけば、総髪美青年の匕首が、僕の元結髷をぐ。

 燕隊長の段平刀が、僕の長袍を斬り裂けば、総髪美青年の匕首が、僕の肩を傷つける。

 一対一の死闘に、はさまれた格好の部外者(僕)が、何故か一番、被害をこうむっている。前を向いても後ろを見ても、怒気を満々と湛えた眼差しは、僕の顔にすえられている。

 いつの間にか僕は、あちこち傷だらけ、髪はほどけてザンバラ、衣装もズタズタ、顔面蒼白で……だから、なんで!? なんで!? なんで、こうなっちゃうのさぁ――っ!

「おのれぇ! 我が同朋のみならず、先生の操まで奪ったのか! もう断じて許せん!」

「哈哈哈! 彼……とっても可愛いお尻だったよ、隊長さん! うらやましいだろぉ!」

「ぬわっ……誤解です、燕隊長……ってか、お願いだから、僕を巻きこまないでくれ!」

 僕は嫌ってほど命の危険を感じ、今すぐ両者間から、逃げ出したい気持ちで一杯だった。

 なのに、二人とも……そうは、させてくれないんだよぉ――っ!

 頼むから、別のところでやってくれぇ――っ!

「最早、堪忍ならぁん! 貴様だけは、本気で潰す!」

「おっと……火に油注いじゃったね。こりゃまずいな」

「やめてっ……あぶ、危ないっ! ひえぇえ――っ!」

――キィィィンッ!

「「「……」」」

 刹那、燕隊長の段平刀と、総髪美青年の匕首が、ほぼ同時に、僕の首筋で交差された。

 つまり、僕の首をはさみつけるように、左右から凶刃が、かち合ったワケだ。

 僕は恐怖のあまり、棒立ちで一歩も動けない。間一髪って、まさにこのことだよ!

 本当に、本当に、二人の殺意は、僕の首ひとつ分のところで、止まったんだから!

 すると、総髪美青年の方から先に、ゆっくりと匕首を退いた。

 そうして、僕の体を捕まえたまま、背後の嵌め殺し窓まで、ジリジリと後退する。

 燕隊長は、人質に取られた僕の身を案じてか、それ以上、接近しようとしない。

 それをいいことに、総髪美青年は、勝ち誇った含み笑いを交えて、かくうそぶいた。

「さてと、お遊びはここまで。それじゃあ、楓白君。またね……君の尻、最高だったよ」

――ガシャァアァァァンッ!

 ご丁寧に、僕の尻をなでさすった直後、彼は嵌め殺し窓を蹴破り、外へ飛び出した。

 えぇえ!? ここって確か、四階だったよねぇ!?

 しかし、その心配は杞憂きゆうだった。相手は邪鬼だ。闇夜を悠々と舞い、あっと云う間に篝火かがりびで明るい中庭へ着地すると、そのまま地中へともぐりこみ……姿を消してしまったのだ。

 ここで僕は、今更ながらハッとして、消え往く総髪美青年へ、怒声を投げつけた。

「ちょ、ちょっと! これ以上、人聞きの悪いこと、云うなぁ――っ!」

 とにかく、それだけ叫ぶのがやっとだった。

 あとは、張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたお陰で、その場に腰砕け。
 僕はもう、呆然とへたりこんでしまった。
 一方で、僕の真横に並び立つ燕隊長は、階下を睨んでは、忌々しげに舌打ちするばかり……ただ今の騒ぎに驚き、心配して駆けつけた部下たちを、非道く不機嫌な表情で追い払った。そして……再びの静寂。途轍もなく重苦しい静寂。

 雨は上がったらしいが、割れた窓から吹きこむ夜風が、どことなく不穏な感じだ。

 僕は、こんなことになってしまった責任の一端を感じ、黙ってうつむいていた。

 やがて、燕隊長は長嘆息ちょうたんそくを吐き、僕に詰問した。

「先生……これは一体、どういうことです?」

「え……どうって?」

 ってか、なんで鍵をかけたんです? そんな、うるんだ目で僕を見るんです?
 なんか、ますます嫌な予感が……先刻の会話から察するに、やっぱりこの人、男色みたいだし……うわぁ! 襲われたりしたら、どうしよう! だって、密室に二人きりだし、この人、僕のこと誤解してるし、隊服の襟を緩めてるし、啊……なにより、隣室には、この人の休憩所……つまり、寝台まであるじゃないか! どうしてもっと早く、気づかなかったんだ!

 さらに、僕の疑念と恐怖をあおるように、燕隊長は信じがたいセリフを云い放った。

「どうして、あんな奴に、みすみす身をゆだねたのですか……あんな、下衆な三下邪鬼に、いいようにもてあそばれた挙句、罪をかさねて、脱獄を幇助ほうじょするなんて! 嘆かわしい!」

 真面目な顔して、なんてこと……誤解にも、ほどがあるよ……啊、頭が、痛い。

「燕隊長、莫迦なこと、云わないでください! 僕だって、終いにゃ本気で怒りますよ!」

 僕は猛然と立ち上がり、燕隊長の端整な、しかし今にも泣きそうな、僕への憐れみに満ちた顔を、ギッと睨みつけた。すると勢いで、僕の長袍の襟元から、飛び出した首輪の宝玉に目を留め、乱暴につかんで引き寄せ、燕隊長がさらに語気を荒げて、云いつのった。

「では、この場で身の潔白を、貞操の純潔を、しかと証明できますか? こんないかがわしい首輪まで嵌められて、まるで雌犬ではないか! 男として、恥ずかしくはないのか!」

 ち、近い! 顔が近い! なんか、怖い! 目が血走ってるよ、この人!

「これは! 神々廻道士が、無理やり……」

「つまり、劉晏に、犯された? うぬぅ――っ! それは、いよいよもって……」

 それこそ、絶対に、あり得ぇ――んっ!

「先生、とにかく隣室へ……そこで、念入りにお体を調べさせて頂きます! あなたの云うことが本当か、否か……それに、あのような汚らわしい邪鬼に、尻を犯されたとなると、早々に処置しておかねば! 場合によっては、僭越せんえつながらこの私めが、今宵は身を粉にしてでも、清めて差し上げねば! 鬼業きごうの障りが出る前にね! さぁ、先生……二人きりだし、男同士だし、なにも遠慮は要りません! ただちに、隣室へ移動してください!」

 ひえぇ――っ! そういう展開!? やっぱ、そういう展開を繰り広げる人なの!?

 いくら相手が美男子でも、それだけは、勘弁してくれぇ――っ!

「いいえ、結構です! 僕は犯されてなんかいませんし、鬼業に汚れてもいません!」

「ならば、この場で下穿したばきを脱ぎなさい。確認が済むまで、解放しませんよ」

 声が……声が、一段と低くなって、怖い! ダメだよ、絶対……下穿きなんか脱いだら、それこそ……この人、確認だけじゃあ、済ませてくれないよ! だけど、僕がモタモタしている間にも、燕隊長は僕の裾細袴の帯に手をかけ、さらにもう一方の手で、尻をなでさすり……うげぇっ! これじゃあ、さっきの妖怪と、おんなじじゃないかぁ――っ!

「ちょ、ちょ、ちょっと! 燕隊長! やめてくださ……いっひ――っ!」

 刹那、ズンッ……と、肛門に激痛が走り、僕は悲鳴を上げて、飛び上がった。

 燕隊長が、僕の後孔ごこうに親指を突っこみやがったんだ! いわゆる、浣腸ってヤツ!

「痛いですか?」

「いぃっ……痛くないワケ、ないでしょうが! いきなり、なにを……くぅっ!」

 僕は尻を押さえたまま、悶絶している。燕隊長は、涼しい顔で僕を見ている。

 血っ! 血っ! 血が出たかもしんないぞ! 最悪だよ、もう!

「おかしいな。日毎夜毎に、劉晏から鬼畜のような調教を受け、奴の汚い魔羅まらを、ぶっこまれ続けているワリには、つぼみが固すぎる。女のアソコとちがって、普通、尻は使いこめば使いこむほど、括約筋にゆるみが出て、酷くなると直腸の一部が飛び出し、めくれあがり、挿れてもガバガバで、まったく締めつけなくなるものなのですが……先生のは随分」

 ブツブツと独語どくごする燕隊長……ちょっと! そっち系の知識、多すぎでしょ! しかも、僕を神々廻道士の、犬みたいに誤解して……もう、頭来たぞ! この男色莫迦隊長めぇ!

「燕隊長! 僕は、あんな奴と、そんなことには、絶対、絶対、絶対、絶対、なりませんから! 侮辱にも、ほどがあります! 今の行為についても、僕に、謝ってください!」

 僕は勇気をふりしぼり、ハッキリと宣告した。

 ところが、燕隊長の誤解は、まだ続いていた。

「奴が、首輪を嵌めてまで、可愛がる先生だ。さぞや、使い勝手がいいんでしょうな」

「あの……僕の話、聞いてます?」

「あるいは、媚薬など用いて、先生の意識を奪い、記憶まで操作しているのでは……」

「だから、燕隊長! 僕の話を、少しは聞いてくださいよ!」

「尻には、丹念に香油をぬりこんで、指を使ってよくほぐし、ほどよく仕上がったら」

「ちょっと! 燕隊長! それ以上云ったら、本当に、本気で殴りますよ!」

「四つん這いにさせて後ろから、肛門が傷つかないよう、ユルユルと……いや、それより先生の乱れた表情を、よくよく観察するために、前からということも……いずれにせよ」

「え、ん、た、い、ちょ――っ! やっぱ一発、殴らせてもらいます!」

「先生! お可哀そうにぃ! 私でよければ、今すぐにも慰めて差し上げます!」

――ガバッ!

「ひあっ……」

 本気で殴りかかろうとした僕を、燕隊長は振り向きざま、思いきり抱きすくめた。
 目に泪を一杯ためて……そのまま、隣室の寝台へと、押しやられそうになり、僕は倉皇そうこうした。

 だぁかぁらぁ! どうして、こうなっちゃうんだよぉ――っ!

「だぁ――っ! 好い加減にしろぉ――っ!」

 僕は、渾身の力で、燕隊長の体を突き飛ばした。しかし、そこは武術家と素人の差。

 反動で倒れたのは僕。燕隊長は、驚いた様子で、その場に佇んでいる。

 チクショ――ッ! これは、これで、なんか腹立つ!

「何故、こばむのです? 劉晏の魔羅は、やすやす受け容れておいて!」

 こらこらこらこらこら! さっきから、魔羅って……云い方! 云い方!

 もう……この人、嫌だよぉ!

「だから! ちがうって云ってるでしょう! 僕をなんだと思ってるんですか!」

「ちがう? いや、待てよ……この首輪、今一度、じっくり拝見させてもらいます!」

「ぐえっ……ちょ、ちょっと、苦しいっ……ん」

 燕隊長は、なにか気がかりな点に思い当ったらしく、さっきよりもっと乱暴に、僕の首輪(の宝玉)を、自分の方へ引っ張った。否応なく、僕と燕隊長の距離は縮まる。
 ほとんどはずみだと思うけど、燕隊長の唇が僕の鼻先をかすめ、僕は耳まで真っ赤になっていた。

 感覚で判る……だからこそ、余計に恥ずかしい! なにを意識してるんだ、男同士じゃないか! 相手にも怪しまれるだろ! だけど、いままでのくだりもあるし……あぁあ!

 モヤモヤする! イライラする! ムカムカする! ジリジリする! ムラムラする!

 いや、最後のはちがった!(僕も相当、混乱してるな)

 だけど燕隊長の懸念は、僕の羞恥心や、煩悶のたぐいなど一蹴した。

「先生……これが、なんだか、ご存知で?」

 そう問いながら、ヤケに深刻な表情で、僕の首輪から手を離す燕隊長だ。

「あ、はい、えぇと、誰でも自分の云いなりにできる首輪……ですか? あっ! 但しあいつは、僕のこと、そう云う目では見てませんけど! まかりまちがっても、絶対に!」

 僕は、燕隊長に、またぞろ妙な誤解されることを恐れ、急いで補足した。すると――、

「そんな単純なものでは、ありません。ここに嵌まった宝玉は、命を吸い取るのです」

「はぁ……へ? 命?」

 すっかり他のこと(燕隊長が男色だって件、襲われかけた件、浣腸された件、唇が触れた件……もう、色々ありすぎて……とにかく、本当に、どれも驚いたんだモン!)に気を取られていた僕は、彼の言葉の意味が判らず、すぐに嚥下えんかできず、間抜けにも問い返した。

 燕隊長は、やはりそんなことなど気にもせず、この首輪について丁寧に説明してくれた。

「鬼封じの首輪。正しい名称は【厄呪環やくしゅかん】……本来は茨のような棘が突出し、邪鬼を拘束するという代物なのですが、かなり形状は異なるものの、まちがいないでしょう。討伐隊でも用いますから、判るのです。あいつ……先生にこんな真似しやがって、もう許せん!」

 語尾で突然、感情を爆発させ、燕隊長は床に転がる酒瓢箪を、思いきり蹴り上げた。

 中から酒が吹きこぼれる。啊、アレ……燕隊長が取り上げて、ここにあったのか。

 ただいまの大騒ぎで、どこかに隠してあったのが、床に落ちたんだな、きっと。

 なんにせよ、【厄呪環】と聞いて、僕はひとつ得心し、大きくうなずいた。

「それで、神々廻道士が呪禁じゅごんを唱えるたび、僕の首を絞めつけたり、この宝玉の色味や文字で、僕の心を読んだりできたんですね? だけど、それがそんなに重要なことですか?」

 僕の質問は、前の質問よりもっと稚拙ちせつで、愚問だったらしい。

 燕隊長は、額に手を当て、大きくかぶりを振った。

「云ったでしょう。この宝玉は、着けた相手の命を吸い取ると……反逆心を殺し、自在に操るためにね。吸い取った生命力は、鬼業と化し、やがては着けた者を廃人にするのです。いや……あるいは生きる屍と云った方が、いいかもしれませんな。とにかく危険な代物だ」

 命を吸い取る、命を吸い取る……あっ! つまり! 要は! まさか! そんな!

「ぼ、僕……死ぬんですか!?」

 顔面蒼白、声を震わせる僕に、燕隊長は慈愛に満ちた笑みを向け、こう云った。

「ご心配なく。今すぐどうこう、というほどの鬼業を、先生からは感じません」

 ホッと胸をなで下ろす僕。

 でも、今すぐじゃなくても、いずれはってことだよね……?

 だが、僕が懊悩の海へ沈みこむ前に、燕隊長が別の質問で、気を逸らそうとしてくれた。

「それに、奴は絶えず鬼去酒を呑み続けているとも、云いましたね」

「え? えぇ……それはもう、物凄い呑みっぷりで……」

 それでも、なかば放心状態の僕は、うわの空で答えた。

 しかし、燕隊長の次なるセリフが、僕をハタと覚醒させた。

「では、やはり……あの噂は、真実だったのか」

 腕組みし、目を伏せ、意味深な態度で、つぶやく燕隊長だ。

 僕は戸惑いながらも、ただいまのセリフの意味を訊ねた。

「なん、ですか?」

「神々廻道士は……いや、趙劉晏は、シラフになると人外の物と化す」

「は、い?」

 あのぉ……余計に意味が、判らないんですけど……「人外の物」って、なに?

「もう少し、様子を見るべきかもしれんな、うむ……先生!」

「あ、はい!」

 突然、燕隊長に力強く肩をつかまれ、僕はキリッと身を正した。と云うより、緊張で身を固くした。まさか、とは思うけど……いきなり、この場で押し倒したりはしないよね?

 だけど、ヤケに熱っぽく、からみつくような眼差し、肩から伝わる体温は上昇傾向、小首をかしげて近づける顔……どんどん近づいて来る! 喂々! 口づけでも、する気か?

 先刻からの流れで往くと、やっぱりそうなるの!? うぎゃ――っ! 頼むから、ちょ、ちょっと待ってくれ! 心の準備が……ってか、正直やめて欲しいよ! やめて――っ!

 だけど、わずかに開けられた唇が、唇が、唇が、ついに! 僕へ……こう告げた。

「では、申しわけありませんが、ただちに牢内へ戻って頂きます」

「は……はぁあ?」

 思いがけない一言に、吃驚びっくりしたり、安堵したりで、僕は声を裏返した。

 そんな僕に、燕隊長は作戦の概要を語り始めた。

「先生には今まで通り、奴に与するフリをして、そばに張りついていてもらいます。そして、奴の隙を見て、酒瓢箪の中身を鬼去酒から、鬼業に効果をもたらす『樒酒しきみざけ』へとすり替えて頂きます。それを呑んだ瞬間こそ、奴の最期……奴の正体は暴かれ、周囲で常に監視している我々【百鬼討伐隊】が捕縛に乗り出すと、まぁ、こういった流れになります」

 よかった、この人……ようやく護国団筆頭の指揮官らしくなって来たよ……でもなぁ。

「そんなに、上手くいくでしょうか……あいつ、結構、勘がいいし、なんか不安で……」

 僕は本音をもらし、弱気な表情でうつむいた。

「心配ご無用! 先生の身の安全は、我々が保証します!」

 うぅん……確かに、僕一人じゃどうにもならないし、ここまで力説されちゃ、否とは云いづらいよなぁ……信用してないみたいでさ。今は護国団筆頭の彼らに、すべてを託すしかないか。これも、神々廻道士の呪縛から逃れるためだ。そして今度こそ、当初の目的である〝凛樺りんか奪還〟を果たすためだ。やるしかない! そうだ、やるんだ! 頑張るんだ!

「判りました、燕隊長! 僕、やってみます! 必ずや作戦を成功させ、神々廻道士の悪行の数々を、白日の下に晒しましょう! そして、奴の息の根を止めてやりましょう!」

 燕隊長は無言でうなずき、僕の両手をギュッとにぎった。これにて、協定締結!

 だけど、もうひとつ……僕にはどうしても、気がかりな点があった。

 この機会だし、神々廻道士の過去を知る燕隊長に、思いきって聞いてみよう。

「あの、燕隊長……是非とも、教えてください」

「なんでしょう?」

「神々廻道士……趙劉晏の過去と、雁萩太夫かりはぎだゆうとの関係を」

「雁萩太夫……?」

 その名を聞くや、燕隊長の片眉が、ピクリと上がった。口元が真一文字に引き結ばれる。

 なんか、まずいこと聞いちゃったかな……でも、大切なことだし、僕は知りたいんだ!

 雁萩太夫を、苦界くがいから救い出すために!

「………………………………」

 それにしても、ムチャクチャ長い沈黙……つ、つらい!

 だがやがて、待ち望む僕の、真剣な眼差しに観念したのか、燕隊長は重い口を開いた。

「いいでしょう……なにも知らずに、ただ振り回されるのは、先生とて不如意ふにょいでしょうからね。私と劉晏と《紗耶さや》の関係、過去の経緯いきさつを、時間がないので簡略にご説明します」



ー続ー

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