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【鬼凪座暗躍記】-最期の宴-『其の四』

 涼風にたな引く雲が、かすかな弦月げんげつを細らせる。

 清雅な湖水の淵に建つ八方宝形離宮『十六夜亭いざよいてい』は、深奥な寂莫せきばくに圧しつつまれていた。

 明鏡止水めいきょうしすいに映える蛍火、虫の声音こわねが凛々とすだく草むら、初秋の宵が紅葉色に染まる。

「ここには……善からぬ邪念が、渦巻いております。一人、二人でない……数多の魂魄こんぱくが、死霊も生霊も合わせて、さらなる怨霊を招き寄せている模様……とくに、そこのあなた!」

 霊視を始めて寸刻、膳や酒盃をどけた広間中央で端座瞑想する阿礼雛あれびなが、唐突に叫んだ。

「あなたの左肩口には先刻から怨霊が喰らいつき、離れようとしないのです! あなたを、泥梨ないりへ引きこもうと狙っている! なにか恨みを買うような、身に覚えはありませんか?」

 阿礼雛は白払子びゃくほっすで、まっすぐ圭琳けいりんを指し示し、ズカズカと広間を横切った。

 閻浮提巫女えんぶだいみこの気魄と圧倒的な霊波に、尻ごみした圭琳は、息を詰め、あとずさった。

 女祈祷師の静謐せいひつ青瞳せいどうが、彼の左肩付近を、じっと見すえている。

「その男……藍染の長袍前掛ちょうほうまえかけに恰幅のいい福相で、歳は五十がらみ……多分、劫族こうぞくの大店主人……身形から察するに紺屋こうやでしょう! おびただしい血が流れ落ち、額には深い刀傷が見えます! ああ、きっとあれが、致命傷だったのですね……なんと痛ましい死にざま!」

 目を伏せ、長嘆息ちょうたんそくする阿礼雛のセリフは、圭琳のみならず、仲間七人をも震撼させた。

 恰幅のいい福相紺屋主人……思い当たる男が、一人いた。【刃顰党はじかみとう】三度目の襲撃時に、斬殺した『縹屋はなだや』主人こそ、阿礼雛が圭琳の肩口に見ている、怨霊の特徴と合致するのだ。

「な、なんだと!? 云わせておけば、このれ者め! 根も葉もない誹謗中傷で、俺を愚弄する気だな! それ以上、俺に近寄るな!」

 圭琳はうろたえ、床の間の大刀に手を伸ばそうとした。

 それを、何故か麻那まながさえぎった。

「どうかお待ちください、旦那さま! 私は是非とも、このかたの話を伺いたいのです!」

「そこをどけ、麻那! 一緒に斬り殺すぞ!」

 しかし、麻那は一歩も引き下がらなかった。怒り狂う圭琳にしがみつき、いよいよ激情にむせび泣くのだ。料亭侍女が見せた必死の形相に、青年官吏たちは仰天。

 圭琳も呆気に取られ、わけが判らず憤懣のやり場に窮している。

 麻那は圭琳を抑えたまま、哀切な瞳で女祈祷師を顧み、上ずった声音で叫んだ。

「阿礼雛さま、先を続けてください! あなたには本当に見えているのでしょう? 残虐な夜盗一味【刃顰党】に殺された『縹屋』主人の亡霊が……私は『縹屋』の娘なのです!」

「「「「なんだって!?」」」」

 青年官吏八人に、激震が走った。麻那が明かした素性は、彼らに衝撃を与えた。

 圭琳の戦慄は殊更だった。当然である。彼らが殺した縹屋主人の娘を、そうとは知らず凌辱した挙句、夫婦約束の真似事までしてしまったのだから。

 大きな瞳一杯に泪をにじませ、嗚咽する麻那へ、阿礼雛はまたも脅威の宣告を下した。

「判っておりますよ。あなたが今宵、この場に居合わせたのも、単なる偶然ではありません。これこそ、天のお導きでしょう。お父さまの声は聞こえませんが、あなたに向ける眼差しに、邪念はまったく感じません。いいえ、それどころか父上は、とても悲しそうな瞳であなたの身を案じ、非常に強く嘆いておられる……その理由もおしなべて、今からご覧に入れる【閻浮提式巫術えんぶだいしきふじゅつ】の交霊『生口いきくち』が、つまびらかに語ってくれるでしょう。では早速、始めたいと存じます。皆さまがたも、異論はありませんね?」

 その間にも、着々と交霊の準備を進める異形従者。五尺ほどの茅の輪を座敷へ布いて、周回に八つの雪洞ぼんぼりを並べる。四垂幣束しでへいそくを立て、紅米べにごめで結界線を描き、各所に清めの盛り塩をおく。

 逼迫した八人は、交霊を阻もうと武具を手に取った。

 尚も邪魔する麻那を蹴り倒し、完全包囲で抜刀、物々しく阿礼雛を恫喝する。

「ふざけるな! この詐欺師どもめ!」

「貴様らの如き下郎に、なめられてたまるか!」

「即刻やめねば、この場で斬り捨てるぞ!」

 翔雲しょううんの抜いた偃月刀えんげつとうが、阿礼雛の白いおとがいにヒヤリと触れても、彼女は臆さずたしなめた。

「やめなさい。私の云うことが、虚偽か真実かはじきに判明します。それとも、交霊を恐れるやましい理由が、あると云うのですか? 胸に一片の曇りもなければ、黙って見物できるはずですものね。見ればこの刀も……随分と血を吸っていますな」と、大胆にも偃月刀の切っ先を、細い指ではさむ阿礼雛に、さすがの翔雲も、気おくれて刀身をのけた。

 苦々しく舌打ちする。仲間たちも、不承不承、後退する。

 たとえ、どういう結果になろうとも、彼らは美貌巫女を、無傷で帰す気など毛頭なかった。

 勝手に飛びこんで来た以上、こちらも好き勝手にふるまうつもりでいた。

 重大な秘密をにぎっているなら尚更だ。異形従者は即座に始末、縹屋の娘と知れた麻那も口封じすればよい。その前に、心ゆくまで絶世の美女をなぶり者にする。

 そう強がってはみても、得体の知れぬ恐怖に取り憑かれ、八人は慄き始めていた。

「皆、落ち着け。うろたえるな。予定通り傍観すればいいさ。どうせ皆殺しと決めたんだ。腹をすえるしかないだろう」と、小声でつぶやく圭琳に促され、仲間たちは刀を戻した。

〈そうだ、なにも恐れることはない。ここは我らが主の宴席。主導権は我らにあるのだ〉

 同期生だからこそ、互いの動揺を知られるのも気まずい。八人はあえて、冷静を装った。

 指定された通り円陣組んで、ドッカと座る。彼らは怖気を隠し、心新たに交霊へ臨んだ。

「では、ご覧に入れましょう……皆さま、円陣外側で座禅を組み、動いたり騒いだりなさらぬよう心がけてください。怨霊に憑依されても困りますので、先にお渡しした魔除けの樒葉しきみばをくわえ、決してしゃべらず、口を開かぬよう、かさねておすすめ致します」

 茅の輪で座禅を組む異形『生口』男、囲む八つの雪洞。

 紅米結界陣の外側で円座する九人は、口に樒葉をくわえたまま、深くうなずいた。

 皆、緊張した面持ちで、女祈祷師の一挙一動に注目する。異質な空間の中、阿礼雛は練絹水干ねりぎぬすいかん襦裙じゅくん白装束を、スルリと脱ぎ去った。

 惜しげもなく、瑞々しい白皙はくせきを露にする。

 蜉蝣かげろうの羽に似た水衣一枚だけで、薄皮の如く細い肢体をつつみ、女祈祷師は白払子をかざす。煌々と凄艶な阿礼雛の美しさに、青年官吏たちは魅入られ扇情され、見惚れていた。

『バン・ウン・タラク・キリク・アク』

 巫女は不可思議な言葉をつむぎながら、『生口』の座る茅の輪周回をゆっくり歩き始めた。

 白払子で雪洞をかすめるたび、燐粉のような青白い光烟こうえん白毫びゃくごうの毛先からほとばしる。

『バン・ウン・タラク・キリク・アク』

 ひるがえる蜉蝣の羽、漂う伽羅香きゃらこう玲瓏れいろうなる呪禁じゅごん瓔珞ようらくがまたたき、阿礼雛の歩は徐々に早まる。やがて彼女の白肌は、熱をおび、朱色の模様を浮かび上がらせた。

 それは白粉彫おしろいぼりした文字だった。一見【穢忌族えみぞく】のようだが、入れ墨でも観音経でもない、まったくの別物だ。おそらく、閻浮提特有の言語なのだろう。

 食い入るほど見つめる一同は、その文字の形態が、五種類のみであることに気づいた。

 全身に、くまなく浮かぶ朱文字の正体――あるいは彼女が唱える耳慣れない呪禁と、同一なのかもしれぬ。なんにせよ淫靡な光景である。

『バン・ウン・タラク・キリク・アク』

 やがて阿礼雛の白払子にいざなわれ、八つの雪洞から次々と、青白い光玉が漂い出した。

 なんと燈火が、無数の蛍火へ転化したのだ。

 雪洞ひとつが百余の蛍を吐き出し、計八百超。

 どの雪洞も必ず一匹だけ、他より大きく真っ赤な蛍火を誕生させた。

 代わりに燈火を失った雪洞、青暗い薄闇へ沈む広間、樒葉をくわえ絶句する九人。

 彼らの鼻先をかすめ、青白く、時おり赤い蛍火だけが、延々と乱舞する。

 先導する阿礼雛を、追尾する蛍群。九人が囲む円陣一杯まで広がり、回遊し続けた。

 まるで、夢幻世界へ迷いこんだような錯覚に囚われ、青年官吏たちと麻那は呆然自失。

 蛍群の火輪にめまいを覚え、気が遠くなった。

『バン・ウン・タラク・キリク・アク』

 すると、降魔坐ごうまざで瞑想する異形従者の方にも、ここに来て大きな変化が生じ始めた。

 男は小刻みに震え、うっすらと血汗をかき、口をふさぐ護布を乱暴にはぎ取ったのだ。

「「「「うっ!?」」」」

 異形半身男の素顔に、一同慄然となった。

 おぞましいことに、彼は唇の上下を朱色の糸で縫い合わされ、わずかしか開けられなくなっていたのだ。だが彼は、開口部を最大限に広げ、唇から鮮血をしたたらせた。

 全身の痙攣はますます酷くなり、からげた唇の上下八点は、痛々しく食いこんだ朱糸のせいで、今にも千切れ、引き裂けそうだった。

 髪振り乱し、獣声じゅうせいでうなり、茅の輪結界の中、のた打ち回る異形男。

 常軌を逸した『生口』の狂態は〝鬼憑き〟の兆候とも酷似していた。

 惨状を直視できず、麻那は目をそむけた。

 青年官吏八人も怖気をふるい、顔をしかめる。

 酒気も、すっかり抜けきってしまった。

『バン・ウン・タラク・キリク・アク!』

 不穏当な呪禁に廻された蛍火は、阿礼雛の指揮で白払子に従い、波形のうねりを造る。

 その内、青海波せいがいはから八匹の赤い蛍だけ分離され、異形男の開口部に、見る見る吸いこまれた。蛍火八匹を吸収した『生口』は、四つん這いで血泪を流し、魂消たまげる雄叫びを放った。

「ぐおおぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉぉぉっ!」

 その途端、唇をつなぐ朱糸は一気に弾けた。

 男は発狂し、己の顔をかきむしる。

 皮膚はえぐられ、血にまみれ、ボタボタと肉片をぎ落とす狂態は、見るも無惨。

「あっ、ああっ……嫌ああぁぁぁぁあっ!」

 酸鼻な光景に動転し、麻那が悲鳴を上げた。唇から、魔除けの樒葉がヒラリと落ちる。

「麻那さま! 座を崩しては、いけません!」

 阿礼雛の鋭い叱責が飛び、麻那は腰砕けになった。顔を両手で覆い、惨状に堪える。

 青白い蛍火は、茅の輪と同円形に縮まって群舞。異形男の凶相を、青々と照らし出した。

〈容易ならざる事態が、起きつつあるぞ!〉

 青年官吏たちも、かつてない脅威に身を晒され、今すぐ逃げ出したい気持ちで一杯だった。

 ただ腰が抜けて、どうにも立ち上がれないのだ。また、阿礼雛の厳命を破るのもはばかられた。欲心を抱き、面白半分で交霊術に臨んだことへの、激しい後悔も襲って来た。

 しかし、すべてがもう遅かった。

 異形男の、凄絶なうめき声を聞きながら、彼らはひたすら息を殺し、口の中で念仏を唱え続けた。万一にそなえ、大刀もつかむ。翔雲は鯉口こいぐちを切る。

『エーヴァ・マラダン・ニローダ・チャクシュフ・シュロートラ・グフラーナ・ジフヴァー・カーヤ・マナーンシ・ヴィハラトゥヤ・ダートゥル・マールガー・ボダーク・マーシリ・バン・ウン・タラク・キリク・アク!』

 阿礼雛の不可解な呪禁に合わせ、異形の丸みはさらに脈打ち、『生口』男の体格まで変形させた。そして……『生口』男は、酷い血まみれの凶相で、ユラリと立ち上がったのだ。

 そこに、元の異形従者の姿はなかった。

 背筋は伸び、横幅もふくらみ、まるで別人だった。

 血染めの蓬髪ほうはつ、裂いた皮下からのぞく憤怒相は、強烈な殺意をみなぎらせている。

 青年官吏八人は、その男の顔を知っていた。ワナワナと震える唇が、樒葉を落とす。

『鬼畜外道ぅ……高家こうけの身分を笠に着て、放埓三昧の挙句ぅ……命をもてあそんだ人非人にんぴにんめぇ……罪に穢れた無慈悲な手でぇ、わしの命を奪った手でぇ、よくも大事な娘にぃぃ……』

 結界茅の輪をまたぎ、蛍火散らして歩み寄る男……五十がらみで、恰幅のいい劫族の大店商人風……彼は、身の毛もよだつ吐血怨言を噴出し、青年官吏八人へと肉薄した。

『生口』男に憑依したのは、まがうかたなき『縹屋』主人。惨殺された、その亡霊だった。

「お……お父さま!? そんな、まさか!」

 麻那は、目前に現れた亡父の姿に震撼。瞠目し、後句を呑みこんだ。

 八人は、縹屋の気魄に圧倒され、凍りついた。

 強張って、身動きひとつできぬていたらくだ。

『人のなりしたけだものどもめぇぇ……今宵こそ、地獄へ引きずりこんでるぅぅ……凶賊【刃顰党】の正体八人……確かに見たりぃぃい!』

 福相を鬼の形相に変え、八人を恐怖に陥れる縹屋の怨霊。

 燐火蛍を青々とまとい、頭部から二本の角を突出させ、深紅の瞳を憎悪にゆがませる。

 割れた額が血をしたたらせ、藍に染まった毒々しい爪が、凶賊一味へ魔手を伸ばす。

 そんな『生口』の変貌ぶりと、八人に迫る危機を、阿礼雛は黙って傍観するのみ。

 じりじりと壁際に追い立てられ、切羽詰まった青年官吏たちは、ついに馬脚を表した。

「こ、こんなことって……あり得ない!」

 青ざめ、声を上ずらせる朱茗しゅめい

「嘘だ……わ、悪い夢を見てるんだぁ!」

 目をそむけ、現実逃避する陬慎すうしん

「もう沢山だぁ! やめてくれぇぇ!」

 半狂乱でわめき、耳をふさぐ彩杏さいあん

「来るな……俺がったんじゃない!」

 及び腰で、切っ先をかまえる隆朋りゅうほう

「た、頼むから、成仏してくれよぉ!」

 泣きっつらで、両掌を合わす佑寂ゆうせき

「騙されるな! こいつらの猿芝居だ!」

 おびえをひた隠し、抜刀する翔雲。

「そうだ! 貴様らの無礼は、許しがたい! 下手な茶番劇には最早、我慢ならん! この詐欺師どもを、嬲り殺しにするんだぁぁ!」

 皆の戦意をあおり、けしかける圭琳。

『鬼畜外道ぅぅ! 地獄へ堕ちろぉぉお!』

 鬼の形相で、耳障りな獣声じゅうせいを放つ榮旬えいしゅん

 そう……おぞましい獣声を放ち、ギラリと凶刃を向けたのは、縹屋の怨霊に憑依された『生口』男ではなく、榮旬坊主だった。彼は完全に正気を失い、あろうことか仲間七人へ、なんの躊躇も見せず、猛然と襲いかかったのだ。

『ぐおおぉぉぉおおぉぉぉおぉぉぉおっ!』

 耳をつんざく雄叫びが、仲間たちの心をえぐる。冒涜者の身で、僧籍を穢した祟りだろうか……榮旬はいつの間にか、縹屋の怨霊に取り憑かれてしまったらしい。

 途端に蛍火は障子紙を破り、夜空へ飛散霧消。深奥な闇に閉ざされた広間へ、視界をなくした憐れな生贄どもの、凄絶きわまりない叫哭きょうこくがとどろき渡る。

「えっ……榮旬っ! やめろぉぉぉおっ!」

「来るなぁぁっ! 斬り殺すぞぉぉおっ!」

「正気に戻れ、榮旬っ……ひいぃぃいっ!」

「俺に、近づくなっ! ぎゃあぁぁあっ!」

「嫌だぁ! 誰か、助けてくれぇぇえっ!」

 疑心暗鬼の闇舞台……刃音、血飛沫ちしぶき、断末魔。

 榮旬の人間離れした猛攻が、相手かまわず滅多斬りにする。

 かくして……【刃顰党】一味の、血生臭い狂宴が、ようやくお開きになったのは、夜明け間近の五更過ごこうすぎであった。


ー続ー

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