隠れ里のおばあちゃん -山神姫の憑き添いなれば 外伝-(1)
「なにしにきたんだい?」
これが、祖母の第一声だった。
僕は、大学一年生の夏休みを利用して、郷里の山奥に、一人捨てられたように住む、祖母を訪ねたのだった。
最後に祖母に会ったのは中学三年のときだ。それまで、一年に一回は母に連れられて様子を見に来ていたのだが、母が離婚してからは余裕も無くなり、足が遠のいていた。
理由を聞くと母は、「おばあちゃんが一人が好きって言ってたから」という。
そんなのは、祖母が母に来ない理由を作ってあげるために、言ったに決まってる。
新しい父は、少しうたぐり深い人で、母が出かけることを嫌っていた。それ以外はいい人なのだが、なおさら、祖母の家への足は遠のいた。
父も連れて祖母のところに行こう、というと、母は、「おばあちゃんが、一人暮らしで気が楽だからほっといて。だって」と言った。
つまり、母は新しい生活を優先させるがため、祖母を捨てたようなものなのだ。そして祖母もそれをわかっていて、母に罪悪感を抱かせないように、あえて自分から「来るな」と言っているのだ。
その後、僕は都内の大学に通うことになって一人暮らしをはじめ、夏休みを使って、両親に内緒で祖母の家に来たのだった。
※※※
僕は、そっけなさすぎる祖母の言葉に、少し動揺した。
「おばあちゃん、久しぶり。今日はおみやげ持ってきた。お酒好きだったから、ほら、これ」
そう言って日本酒”安東水軍”の瓶を見せる。
祖母は70歳近いとは思えないほど、素早く近付き、安東水軍をひったくると上目遣いに僕の顔をジッと見て、
「まあ、すぐに追い返そうと思ったけど、貰っちまったからしょうがないねぇ。上がっていきな。でもすぐに帰るんだよ。おまえの両親が嫌がるだろ」
ガラガラ……と、格子戸を開けると土間があって、板張りの玄関、その先に長い廊下が続いている。
土間を見ると、僕が子供の頃イタズラで書いた魔法少女が、いまだに残っている。祖母は慌てて、近くに置いてあった草履でそれを隠した。
居間に入ると、異臭、悪臭、腐臭。
原因はその場の状況でわかりきっている。酒瓶、ビールの缶、パックの日本酒など、ありとあらゆる種類の酒の空き容器が散らばっているのだ。
「おばあちゃん、これ……」
「もうイヤになったろ。帰ってもいいんだよ」
「いや、掃除させてよ。おばあちゃんは隣のお部屋にいて」
「余計なことするんじゃないよ。あたしゃ気に入ってるんだから」
「清潔にすればもっと気に入るって。ほら、隣の部屋に」
僕は祖母の背中を押して、隣の部屋の戸を開く。しかしそこも、居間に負けず劣らず、コキタナイ状況だった……。
5時間でその二部屋片付けられたのは、奇跡と言っていい。
祖母は、居間でグッタリしている僕に「まだ帰らないのかい?」と聞いた。
「疲労困憊してるんだけど…… それに僕、今一人暮らしだから、お母さんたちには、ここにいることバレないよ。かといって心配はかけない。いつでもコレで連絡できるからね」
そう言ってスマホを見せる。ここにはスマホどころか、黒電話さえ無いので、祖母は珍しげにスマホを手にとり、いじっていたが、ふと上目遣いで僕を見て、言った。
「ここにいること、バレないって、ホントかい?」
「うん」
「そっそうかい…… 一人暮らし、大変じゃないのかい?」
「まぁ、経験としていいと思ってるよ。お母さんも僕の一人暮らし大賛成でさ」
「ふーん、息子ベッタリのあの子がねぇ……」
祖母は、ちょっと複雑そうな表情を浮かべると、台所から、いなり寿司を持ってきた。
「うわああ! おばあちゃんのいなり寿司、子供の頃から大好きだったんだよ。食べていいの?」
「もちろんだよ。たくさん食べるといい」
夕食が済むと、その日の太陽は足早のようで、もう夕方。僕は、頼みづらいことを祖母にいう。
「あのう、僕ヘトヘトでさ、出来れば泊めて欲しいんだけど……」
祖母は、「ここにいること、娘にはわからないんだね?」と、確認するように、再び聞いた。そして言葉を継いで、
「ダンナの機嫌損ねて、また離婚なんてコト、あたしゃまっぴらゴメンだからね」という。
「うーん、今のお父さんはお母さんの外出にはウルサイんだけど、僕の行動は特に制限しないんだよね。まぁ、他人だしね。お母さんが僕を心配してここに来たりしたらマズイかもだけど、僕のアパートにも来たこと無いのに、ここにくるなんて無いなぁ」
「そうかい、それなら、泊まるといいさ。こんな汚い家、イヤだろうけど……」
「イヤじゃないよ。子供の頃から、ここ大好きだったし。一人暮らしで一番良かったって感じるのが、おばあちゃんのところに自由に来れること、だもんね」
「バカお言いでないよ。でも、ここが好きなら、おまえの気の済むまでいたらいい。ま、どうせスグに帰りたくなるだろうさ。それにおまえも大学生だろ? 彼女ぐらいいるんじゃないのかい?」
「いないよ。モテないもん」
「女の子みたいに髪伸ばしてるからだよ。タダでさえ顔立ちが男らしくないのに、それじゃモテないねぇ。ま、あたしゃいいけど」
「おばあちゃんがいいなら、それでいいや」
祖母は無言だったが、今日初めて、ニッコリと笑った。
「おまえは布団で寝な。あたしゃコタツで寝るから」
寝室に布団が一組だけ敷いてあった。というか、この家には一組しかない。
「あれ? 僕が子供の頃、僕やお母さんのとか、いくつもあったけど、どうしたの?」
「あれ以来、誰も泊まりになんて来なかったからねぇ。押し入れに入れっぱなしにしてたら、カビだらけになって、捨てちまった。今は裏山でムジナの寝床にでもなってるだろうさ。アハハハ」
「じゃあ、おばあちゃん布団で寝てよ。僕がコタツで寝るからさ」
「ナニ言ってんだい! 可愛い孫をコタツで寝かせるなんてできっこないだろっ」
「僕だっておばあちゃんをコタツで寝かせるなんて出来ないっ」
「娘に似て強情な子だねぇ」
「お母さんはおばあちゃんに似てる」
「あー言えばこー言う…… それじゃなにさ、一緒に寝るしかないじゃないか。イヤだろ? こんな酒臭いババアなんかと」
「僕は別にいいけど。子供の頃は一緒に寝てくれたじゃん」
「……じゃ、お風呂入ってから寝るとするかね。でもね、お風呂で酒臭さは取れるかもしれないけど、ババアは取れないからね!」
「なにそれ…… 酒臭さが取れれば充分だって」
僕の言葉が終わらないうちに、寝室の襖はぴしゃりと閉められ、祖母が風呂場に向かう足音が聞こえた。
祖母から漂う石鹸の香りに包まれて、眠りの底に落ちた僕は、祖母が布団を出る気配で目を覚ました。
「むにゃ、、、トイレかな……」
しばらく待っていたが、かなり長く、僕はまた眠りに落ちた。
朝、祖母は朝食の支度をしている。
「おまえ、ふかし芋だけど、いいかい?」
「おばあちゃんのふかし芋、大好物だよ」
ふと見ると、目の下にクマを作っている。
「おばあちゃん、僕と一緒じゃ眠れなかったよね。ゴメン」
祖母はプルプルと首を振り、「そうじゃないんだよ、そうじゃ……」と、急に口をモゴモゴさせて、ふかし芋を皿に乗せた。
その夜、深夜二時を越えたころに、やはり祖母は布団から抜け出した。
しばらくしても戻らないので、僕は用を足すフリをしてトイレに行くと、誰もいない。玄関を見ると、祖母のサンダルが無い。玄関の鍵が開いたままだ。ふと、格子戸のスリガラス越しに、懐中電灯の明かりが見えて、僕は慌てて寝室に戻り、布団にもぐりこむ。
祖母も後から布団に入って来る。僕は寝返りをして祖母の体に触れると、やけに冷たかった。こんな時間に、祖母はずっと外にいたのだと思った。夏とはいっても、ここは北国でかつ標高が高い。それじゃあ体が冷えるのは当たり前だ。
僕は寝ぼけたフリをして祖母の身体に抱きついた。僕の体温が伝わる頃になると、祖母の震えは次第に治まっていった。
そして、夜明けも近いころ。
「ほんに、優しい子じゃのう」
「はい、水神姫様のお気に召しましてございましょうか」
「うんうん、申し分ない。姿も清らかで良いおのこじゃ」
「では、この婆の願い、お聞き届けいただきとう存じます」
「このおのこならば、こちらから願いたいくらいじゃ。ヤシロにも一人、有綱という良きおのこがいるのじゃが、娘の山神姫が独り占めしおってな、まったく手出しできぬ…… というハナシはいいのじゃが、よいのか? おぬし、我が”憑き添い”になるのじゃぞ。わしが鎮座するこのヤシロがある山から出ると、神通力が失せて、元の姿に戻る。今はよかろうが、何十年も経った後に元に戻ったら、おぬしの命の保証はできぬ」
「それで、よろしゅうございます。婆に二言はございません」
「そうか、ならば」
僕は、祖母のほかに誰かいるのかと、薄目を開ける。しかし、目の前には、僕が抱きついて温めている祖母がいるばかりだ。祖母が、祖母が? えっ!
「おまえ、目覚めていたのかい?」
寝返りをうって、僕を見つめたのは、祖母だった。そう、子供の頃に見せてもらった昔の写真に写っていた、若い頃の。
「うわっ! おばあちゃんっどうしたのさっ!」
僕が慌てて布団から出ると、祖母は上半身を起こし、「おお、こうなったか」と言って、薄暗い豆電球の下、自分の手足や、寝巻きの胸を開いて身体を見、しきりに感心している。
年のころは僕と同じくらい。白髪はツヤのある長い黒髪になり、瞳は大きく開き、しっとりとしたうなじが寝巻きの襟元から見え隠れしている。
祖母は、僕を上目遣いにジロリと見てからニッコリ笑い、
「ほんに、優しい子じゃ。しかし、おまえが布団から出てしまってはこの身体にしてやった甲斐もない。ほれ、もどりゃんせ」
そういって、掛け布団を開いて手招きした。
僕は恐る恐る祖母の隣で横になると、祖母も安心したように目をつむる。
「こんどは、おまえが冷えてしまったな」
そう言って、僕を抱きしめてくれた。
そして肘枕をして僕をジッと見つめながら、膝を絡ませてくる。そして、僕の額に一度、両頬に一度ずつ、口づけをする。
「見守っておるから、寝るがよいぞ」
古めかしい祖母の口調に輪をかけて古めかしい言い方に思えたが、熱を帯びた僕の頭は、それ以上考えを巡らすことはできない。
だから、とても眠れはしないが、心地はよかった。
朝、夢うつつのまま起きると、祖母が漬け込んだ赤味噌独特の、懐かしい香りが部屋を満たしている。
その香りに誘われてフラフラと台所の入り口に立つと、祖母は気がついたのか、「朝御飯、もうすぐだから、待っといで」と、言った。
換気窓から差し込む朝日に照らされた祖母の姿は、昨夜と同じく、若いころのまま。
「おばあちゃん……」
祖母は味噌汁を煮立てながら、言った。
「驚いたろうね。あたしゃ年甲斐も無く、ヘンなこと考えてしまってね。昨夜、聞いてただろ? あたしと、水神姫様の話……」
そう言うと、ナスを切って味噌汁の鍋に入れる。そして、僕に聞いた。
「いつまでなんだい? 夏休み」
「2ヶ月間だから、来月末までだよ」
「どう、するんだい?」
「ここにいたいんだけど、いいかな?」
「当たり前じゃないのさ。好きなだけ居てもいいって言ったろ。ホレ、もうすぐ朝飯だから、居間で待ってな」
僕は山ほどの質問をグッと飲み込んで、居間の座布団に座る。
祖母は僕の前に朝食をおくと、向かい合わせで座った。いただきますのあと、味噌汁をすする。やっぱり祖母の味だ。
「おいしいかい?」
「うん。最高」
「そうか、毎日作ってやろう」そう言ってから、僕のソワソワした様子を見て、
「水神姫様に礼を言わなきゃねぇ。朝飯食べたら一緒に山頂のヤシロに行ってくれるかい?」
つまり、そこに僕の疑問を解消する答えがある、ということだ。
僕はこっくり頷いて、朝御飯を口にかっ込んだ。
※※※
僕は、綺麗な着物に着替えた祖母と山道を登り、急峻な場所は祖母を背負って、やっと山頂のヤシロに到着した。想像したより新しい。
由緒書きを読むと、祭神は水神姫、その娘の山神姫、最後に源有綱、とある。
「源有綱だけ、人間のようだけど、なんで?」
「有綱様は、山神姫の”憑き添い”じゃ。清和源氏の一族で、人間だったものが、半神半人になったと伝えられていてね。で、三柱とも、ここで生きているから、粗相があっちゃならないよ」
「ふーん、でもさ、御由緒を読んだ限りだと、おばあちゃんの言ってた、水神姫様の”憑き添い”は、いないんだね?」
「んっ」祖母は口ごもってから、思い切ったように言う。
「それは……あっあたしなんだよ。昨夜、おまえを見せたら、お許しが出ての。そして、あたしはこのような身体に。ただし、水神姫様の神域である、この山を出ると元に戻ってしまう」
「どうして、そんなことを……」
長い沈黙があった。祖母は口ごもり、何か呻き、空を見上げ、最後にヤシロに何事か祈ったあと、僕に向き合い、両手を僕の頬に当てて、言った。
厳しい口調だ。
「おまえがっ、おまえが悪い…… なんで酒飲みのヘソ曲がりババアに優しくする? なんであんなボロ家で居心地よさそうにしている? なんで、あたしの料理をあんなおいしそうに食べる? なんで、あたしのようなババアなんかと一緒に寝ておるんじゃ。あたしゃもう…… 数年に一度しか、おまえに逢えないなんて、いやじゃっ! あたしゃ、水神姫様におまえと同い年の身体にしてもらった。どう? ヘンじゃなかろう? おまえとつり合っておろう? だから、ここに居れっ、ずっとここにぃっ!!」
僕や母への強がりと、意地だけで生きてきた祖母の、おそらくは初めての、心情をさらけ出した言葉だと思った。
「おばあちゃんから離れないっ!」
「かっ間髪入れず答えおって! 言った以上は、約束を守ムグっ……」
僕はおばあちゃんにキスをした。
が、しかし、なんと、返ってきたのは、平手打ちだった。
「いだいっ!」
「バカモノ! 祖母に口づけなんぞするヤツがおるか! ヘンタイかっ!」
「はぁ? おばあちゃんだって、昨夜あんなに……」
「だから、水神姫様の憑き添いだと言ったじゃろうが! 水神姫様におまえを見せたからこそ、憑き添いになることを許していただいたとも言ったぞ。あたしの話をしっかり聞かんか」
「つまり、夜のアレは、水神姫様ってこと?」
「あったりまえじゃ。水神姫様は、おまえとソレやコレやがやりたいから憑き添いになったんじゃろうが。いいかい、あたしとおまえは、添い寝する、お風呂に一緒に入る、せいぜいそこまでじゃ。寝た後はな、あたしゃ脳ミソの中で障子を閉めて、その裏側におるからな。表側で水神姫様とおまえが何をしようと、知らないよ。それに、あたしに口づけするおまえなぞ、恥ずかしくて正視できんわ」
僕がふとヤシロを見ると、武者姿の若者に背負われた小柄な娘と、白い着物姿のほっそりと背の高い、色白の女性が笑いながら僕たちを見ている。
目が合うと、若武者と娘は慌てるようにすぐ消えたが、色白の女性は、艶めかしい視線を僕に絡ませた後、ゆっくりと消えてゆく。
そのとき、メールの着信があった。
母からである。
昨夜、僕が祖母に内緒でコッソリ送った、「しばらくおばあちゃんの家にいるから」に対する返信だった。
内容は、母が一人暮らしを賛成してくれたとき、僕が感じた、まさしく予想通り。
「本当にありがとう。母さんをよろしくね」
それを見せると祖母は、少し涙を浮かべて「帰ろうかね」と言い、かろやかな足取りで、家路を進んでゆく。
僕は祖母の後ろ姿を見ながら、ヤシロにいた若武者と背負われた娘の姿を思い出す。
そして、あの二人のように、なりたいと、思った。
『隠れ里のおばあちゃん -山神姫の憑き添いなれば 外伝-』 終
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