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モンク、絵と詩と


 セロニアス・モンクの曲には他にはない得難い魅力でもあるのか、多くのプレイヤーが演奏する。ジャズ以外にもクロノス・カルテットがチャレンジしていたり、ロック畑のアーチスト中心で二枚組のオムニバス・アルバムもあった。演奏心をくすぐって、いざやるとこれがなかなか難しいそうだ。

 同じように、絵を描く者を、モンクの風貌は誘惑する。線や面の素敵な形象がそこにあるからで、それを自分の感覚で試してみたくなる。モンクなら、なにかいい絵が描けそうな気がする。気がするだけで、いざ描いてみると難しい。どんなにモンクらしくなっても、それだけだと本物の方が優る。モンクらしさがなかったら、これはお話にならない。

 モンクの曲を演奏したことはないが、多くのミュージシャンも同じ様な感慨を持つのだろうか。
 モンクの枠から自由で、なおかつ十二分にモンク的であり、新しい一つの世界になっているような作品。バド・パウエルやディック・ツワージクの弾く「ラウンド・ミッドナイト」とまでは望まないが、いつか、そんな一枚を描いてみたいものだ。
 

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 絵は単にモンクを描いてみたいという気持だったが、詩の方はモンクのように書いてみたいと望んだ。ジャンルは違うのに、いつからかモンクに私淑し、文体・詩情なども影響を受けた。そのせいか、空間たっぷり、言葉少なく、いっとき独特のスタイルになって、それは今でも基本として続いている。

 モンク・スタイルは禁欲的で、なかなか幅が広がらない。切りつめて切りつめて言葉を選ぶから、先にもあまり進まない。モンク自身がある程度作曲すると十分だったように、エッセンスで事足りてしまうところがある。

 モンク・スタイルを脱するきっかけは「故園蕪村に遊ぶ」。もう一人の師である蕪村と、俳句と詩でセッションするような雰囲気で、緊張も昂奮もした。その時に課したのが普通の(というのもおかしいが)スタイルで書くこと。まず空白行を封印した。これが案外新鮮で、そこからレスター・ヤングの文体に惹かれるが、ここでは触れない。

 モンクに習ったからといって、詩がモンク世界になったわけではない。モンクはずっと深く、豊かで、静謐な底にダイナミズムを秘めている。変人扱いされながら、じつに敬虔であり、諧謔風刺に受け取られながら、また真面目(しんめんぼく)である。寡黙にして饒舌の音空間を独特の間合いとリズムで躍る彼のピアノは、わたしなんぞの原稿用紙に言葉で記譜できるものではない。そんなことは初めから望みもしていなかったが、詩もまた音楽と同じく、空間を(言葉で)刻むものだということを教わったのは、誇りにしていいと思う。



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