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日本近代 奔放に生きた恋多き女宇野千代

私はあまり文学通ではないし、特に選んで女流文学を好むというのでもないが、色恋い伝承で兎角浮名を流した宇野千代を取り上げたのは姉が本棚に残してあった本を読んでいたという縁だけである。
読んだ感想として世間に取り繕うことが多い自分の人生と比べその色恋成就のすごさに圧倒された。

生きていく私」 
この内容は、松岡正剛氏が書かれたものから大部分を抜粋したものだが、宇野千代は部屋の数が32もある造り酒屋の家に生まれている。山口県の岩国である。近所に広津和郎が住んでいた。

 少女時代はほとんど外へ出なかった。「千代さま」とよばれていた。13歳で金襴緞子の花嫁になった。それから放蕩をきわめた父が死んだ。

花嫁御寮の身から解放され、初めて聞いた浮かれ節(浪花節)に魂を奪われた。ああ、これが芸術だ、これが芸能だとおもった。

 
もうひとつ魂を奪われたものがある。ウサギの足でつくられた柔らかいパフである。千代さんは化粧する娘になっていた。最初の親友は男装の女学生だった。

 女学校を出て小学校のにわか教員になり、そこで男を知った。あっというまの出来事に千代さんは狂った真似をした。

 二人目の男は佐伯という教員で、二人の仲が世間に広まったときに、免職になった。学校の最後の日、千代さんは島田を結い、矢絣の糸織りに牡丹の刺繍の半襟、紺の袴という正装をした。そしてそのまま下関からソウルへ渡った。
 
ソウルでも佐伯が忘れられず、つい日本に戻ってみたが、男の家に行く前に無意識に包丁を買っていた。

むろん小さな破綻が待っていた。以来、千代さんは生涯にわたって失恋をつづけるが、きまって自分から身を引くようにした。

 それでも、そばに男がいないなんてことは考えられなかった。さっそく悟という高校生と京都に出て、知恩院で暮らしはじめた。

 千代さんが東京に行くのは、悟が東京大学に合格したからだった。  着のみ着のままなので、ホテルの給仕、グラビアのモデルなどをし、そのうち燕楽軒という西洋料理屋の女給として働き、そこで中央公論の瀧田樗陰を知った。
その樗陰が芥川龍之介、久米正雄、今東光らを連れてきた。当時は絶世の美少年だった今東光とは氷水屋に通い、自宅までおしかけた。

 悟が札幌の新聞社に勤めることになると、千代さんは仕立物でお金を稼ぐかたわら、ついでに小さな小説も書きはじめ、「万朝報」や「時事新報」に応募した。
 「時事新報」の懸賞小説では第一位になった。第二位が尾崎士郎、第四位が横光利一だった。  

その尾崎士郎とその後に会った夜、二人は同棲をはじめた。むろん千代さんがおしかけた。
そのまま札幌には帰らない。二度と悟とも会わなかった。  千代さんは馬込村に尾崎士郎と住みはじめた。萩原朔太郎が近くに越してきて、一家そろってダンスばかりをしはじめた。

室生犀星も近くにいた。
ところが、千代さんが断髪をしたのにつられて朔太郎夫人も断髪をして、それが若い男に気にいられて駆け落ちをすることになったので、朔太郎の無二の親友であった犀星は、これは宇野千代のせいだといって怒った。  
当時、断髪は珍しく、千代さんはそのハシリだったのである。

 千代さんと尾崎士郎はよく伊豆の湯ケ島に行った。川端康成や梶井基次郎もよく来ていた。  

千代さんは梶井とすぐ仲良くなって、梶井も毎晩ように千代さんのところにやってきた。  これで噂がたって、尾崎士郎は離れていった。
かわりに千代さんは東郷青児と一緒になった。ある日、世田谷の東郷青児の家に行って気にいり、そのまま馬込に帰らなくなったのだ。

 ざっとこんな調子で千代さんの遍歴が語られていく。このあと千代さんは東郷青児と別れて、10歳も年下の北原武夫と結婚をする。

 戦後のファッション界の動向を決定づけた雑誌「スタイル」を創刊し、きものデザイナーをはじめるのも、それからである。

 そのあいだ、青山次郎、小林秀雄をはじめ、そのころの粋や通を求める人たちが、ひっきりなしに出入りするなんとも痛快な自叙伝なのである。

 いうべき手法が横溢している。その原型は『色ざんげ』にあらわれていた。
そのほか『きもの読本』『青山二郎の話』『女の日記』など、いまこそ宇野千代を読む季節であろう。三宅一生が千代さんを慕いつづけていることもよく知られる。

私は青山次郎とか、小林秀雄らの粋人に興味があるので彼らと宇野千代との交流を少し書いてみたいと思った。

青山二郎の話(小林秀雄の話)
青山二郎と小林秀雄は、この稀代の目利きと不世出の批評家である。
両氏と身近を同時代に生きた宇野千代、うち青山二郎の姿をこのように語っている。(小林秀雄については後日書きたい)

宇野千代が書いた青山二郎は、明治34年(1901)麻布区新広尾町1丁目(現・南麻布)に生まれ、飯倉小学校、麻布中学校と進みました。

昭和5年(1930)舞踊家の武原はんと結婚し、麻布一の橋に所帯を構え、作家の永井龍男が隣りに越してきたのを皮切りに、小林秀雄、中原中也、河上徹太郎、三好達治、大岡昇平ら文学仲間が出入りするようになり、青山を中心とする集いは「青山学院」と称されました。

その他にも北大路魯山人、宇野千代、白洲正子、加藤唐九郎など多彩な面々と交流し、その高等遊民的な生き方は多くの作家によって語られています。

「骨董は女と同じだ。抱いてみなければわからない―透徹した美意識に支えられた審美眼の主として、異彩を放ち続けた青山二郎。

その放蕩も含めて日常を見守った宇野千代が、愛と尊敬と好奇心をもってささげるオマージュ(尊敬、賛辞)とは、抑制されたやわらかな言の葉に、卓越したある時代の魂がたしかに宿ることであった。

当時80歳の宇野千代が思い出したなりの書きっぷりなので、さまざまなエピソードが必ずしも整理整頓されずに、披瀝されている。しかし、その混沌とした書きっぷりの中から、青山二郎という人の輪郭と、宇野千代と彼の関係というものが、鮮明になってくる、不思議な本だ。

肉親への非情さと、普通の人々へのあたたかさが同居していることの不思議さ。宇野千代は、青山二郎を知る人たちから、生前の関係を明らかにしようとする。しかし、青山二郎が自らを弁明する人間でなかったことから、第三者を通しては、結局、彼の面貌は明らかにならなかった。

しかし、彼女の、青山との直接の記憶が、対象の姿を明らかにする。

青山さんには損得の勘定がない。いや、それがあったとしても、所謂、世間智と言うものとの関連がない。凡ての発想が直截簡明で、頭脳と心臓との間に、通せん棒をするものが全くないのである。

最後の奥さんである和ちゃん(当時15,6歳でまだ当然彼の妻ではない)を愛する青山さんの姿。

伊東の海岸で、その頃まだ、十五か六であった和ちゃんを抱いて、じっと海の方を向いたまま、まるで無念無想と言う顔つきのまま、何時間も座っているのである。

いや、あれは、抱いていたと言うのではない。親猿が子猿を抱いているように、和ちゃんの体も海の方へ向けたまま、じいっとしているのである。

海岸のことであるから、勿論、おおぜいの人が見ているかも知れないのに、そんなことは眼中にないのである。あのときの青山さんの顔つきも、凝り固まった人の顔だったと、いまになって思うと言うのである。

青山二郎の遊び好きは、ほんとうの放蕩ではないと宇野はいう。「遊んでいるその雰囲気を、自分から口に出して、もうこれで止める、という言う、そのことが辛くてできない」のだ。

宇野は、自分が青山二郎の家に訪ねた時のことを思い出している。帰るという宇野を帰るなという青山。彼女が門を出ようとすると、それについてくる青山二郎。

「あら、あなたも一緒にお出掛けになるの、」と言ったのであるが、そのときになって私は、青山さんが私の帰るのが気に入らない。いや、怒っている、と分かったのであった。
しかし、私にはどうしても帰らなければならないことがあった。子供が追っかけっこをする、あの一瞬の気持ちで、私はいきなり駆け出した。青山さんは生垣のある家の角のところでちょっと立っていたが、私が駆け出した瞬間に私を追ってきた。私は息も出来ないほど駆けて逃げた。

直截簡明の行動しかとらない、子供のような心が青山二郎という人だった。

人間は死んだ時にすべてが明らかになるという。とても怖い言葉である。青山二郎は昭和54年に亡くなった。戒名は「春光院釈陶経」。

四十九日の法要には、おおぜいの人が集まった。「故人が生前住んでいた部屋で、」と案内状に書いてあった。どんなところに青山さんは住んでいたのか、と思う気持ちがあったかも知れない。ずっと以前につき合っていて、ながい間、顔も合せていない人も来た。遠くから汽車に乗って来た人もあった。

「じいちゃんは草花が好きだったんだねぇ、」と感慨をもって言う人もいた。窓のそとの花壇に、花の鉢植が列んでいる。好い天気であった。強いて青山さんの話をする、という風ではなく、みな、勝手な話をしていた。

以前に、NHKで放送したと言う青山さんの「真贋」と題する話が、テープで流されたが、それも自然に行われたので、気持ちが宣かった。青山さんの声をきいて、始めてのように涙ぐんだ人もあった。

ともあれ、四十九日の法要などと言うのではなく、何か愉しい会合があって、人々が集まっている、と言うように思われた。

出された弁当も旨かった。奥の小間の床の間に、お骨が飾ってあって、その上に青山さんの、ちょっと笑ったような写真と位牌がおいてあり、畳の上に備前の大きな甕があって、花がざっくりと挿してある。

ただそれだけで、祭壇のようなものがまるで設けてなかった。人々はその前で手を合せたのであるが、これも気持ちが宣かった。

おもいどおり生きるということは、そんなに簡単なことではない。赤貧の時も富裕の時も、まるで変わらなかったという青山二郎。とてつもなく、強い人だったのだろう。青山二郎も陶器という高級品を愛したわけではなく、「欠けていても、破片になったような人でも、強い、迫ってくるようなものがあると、惹かれていった」のだ。それはものと人を隔てるものではなかった。
50も近づいてくると、何が欲しいとかという思いは急速に消えてくる。だからこそ、一緒にいたいとか、好きだとかいう自分の直観を導きの糸に、生きていきたい。





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