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最後の将軍

水戸学は江戸時代の日本の水戸藩において確立された学風、学問である。

第二代水戸藩主徳川光圀よって始められた歴史書『大日本史』を通じて形成された。

特に天保期以降代第9代藩主徳川斉昭の下で尊王攘夷思想を発展させ明治維新の思想的原動力となった。

光圀を中心とした時代を前記水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けられる。

儒学思想を中心に国学、史学、神道の折衷思想である。

私は自分の故郷静岡県にゆかりのある最後の将軍水戸出身の徳川慶喜の評価について非常に迷いがある。

薩長と衝突した鳥羽伏見戦において前線に出て指揮を取るでもなく大阪城に妾を置いて物見遊山的な生活を送っていた。

恐らく自分が将軍でいながらその勝敗はどうでもいいと思っていたのだろう。

そして先陣部隊が薩長軍に負けたとの報告があり夜にかけて最精鋭部隊である桑名会津兵が一斉に慶喜のいる大阪城に引き上げてきた。

彼れ等は幕府軍が負けた事が信じ難く慶喜の下知を得て再度の京進軍を望んでいたが、城内には負傷兵も溢れ豊臣秀頼が敗れた時の惨状は かくのごとしであったろうと歴史は攻守所を変え繰り返すことが偲ばれた光景でした。

そして一部の腹心を連れての暗闇に紛れての将軍大阪城脱走である。
敵前逃亡は古今を問わずその行為は死刑である。

私は何故武家の棟梁たる将軍が敵前逃亡したのか理解できずにいた。徳川御三家に生まれた彼は死を下知されることもない環境の中で学問武芸ばかりにに励む日常生活であった。

行く末、将軍になれなくても趣味や生来の好色を満たす生活を送ることは可能であり、そのような趣味生活や性的な関心だけでも彼の生き甲斐であったことは確かであろう。

薩長との戦争を放棄し日本を戦争から救い外国の侵略から守った功労者かそれとも敵前逃亡の腑抜け者かは前後の行動を読み解く力によってその評価は大きく変わるのです。日本がほぼ平和りに明治維新を迎え国家変革に成功したのは徳川慶喜最後の将軍の敵前逃亡があったからなのは間違いないのです。

最近は徳川慶喜が育った水戸家の水戸学にその思想解明の糸口があるのではないかと思うようになった。そんなことを切り口にこの考証を続けてみたい。

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https://note.com/rokurou0313/n/n47a9a4559b2b/edit

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