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大山捨松-その四

11年間の留学で培った成果は、卒業講演の成果となってアメリカ人の聴衆に迎えられた。
当然日本でもその結果を披露できるものと希望に燃えて帰国した捨松を待っていたのは、女性を正当に処遇しない社会の現実であった。

国費留学をして帰国した男性には高級官吏や大学教授の職が与えられたのに、女性の留学経験者には活躍の場が皆無であった。

北海道開拓使が企画した女子留学生派遣の壮挙は見掛け倒しで終わったが、その後津田梅子や大山捨松の活躍は知る人ぞ知るの歴史の一エポックを築いた。

 帰国後の失意の中で捨松は、薩摩藩の出身で、かつて鶴ケ城を砲撃した当人である陸軍卿の大山巌(いわお)から求婚される。周囲はもちろん反対したが、大山の人柄に魅かれた彼女は、自ら結婚を決意したことは先回に触れた。

陸軍卿夫人となった捨松は、各国との不平等条約改正のため、日本の文化性を披露するために建てられた鹿鳴館における舞踏会や晩餐(ばんさん)会で注目されるようになり、やがて「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになった。
端麗な容姿で英語、フランス語をネイティブのように話す姿が各国外交団を魅了したからである。

教育支援続ける。
ある日捨松は、看護教育の普及を念願とした自分の意見を援護するような海軍軍医高木兼寛と出会った。
近代看護教育の導入の必要性を説く高木は、英国のナイチンゲール看護学校を擁した聖トーマス病院に留学した経験を持っっていたのだ。
彼は看護学校創設に動いていたが何せ資金が不足していた。

捨松も自身の夢の実現に、バザーによってその資金を用意することを高木に発案した。
皇族や貴族の夫人で構成された婦人慈善会が結成され、鹿鳴館でバザーを行った。
その収益金によって1885・明治18年に設立されたのが、日本初の看護師養成機関・有志共立東京病院看護婦教育所(現慈恵看護専門学校)である。

その他にも彼女は、赤十字看護会理事として看護師教育を援助している。また旧友でもある津田梅子が取り組んだ女子高等教育(津田塾大)も支援し続けた。

日本初の女子留学生として学士号を得て帰国したにもかかわらず、正当に処遇されなかった捨松は、日本が、女性の能力を伸ばし発揮させる社会に変わることを切望していたのである。
大山卿との結婚は、単なる男女の結びつきではないジェンダーに基づく男女差別克服への大きな足跡の一歩をしるしたのだが・・・

世界の先進国では、ジェンダー論が盛んに唱えられる現状だが、男女の不平等状況を分析した『世界ジェンダー・ギャップ報告書2021』によれば、世界156カ国中で日本は120位で、G7の中では圧倒的最下位であるそうな。今もって、捨松の目指した理想は遠いと福島県立医大講師 末永恵子氏の論である。

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