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シンプルさは究極の洗練である

日本画、特に墨絵においては、何も描かれていない表現されていない場所を意識させられることが多いとおもう。
実はそれは空間的な間(ま)や余白なのです。

鑑賞者へ表現者から心の余白が用意されているのです。
それが余韻や解放感を見る者へ与えてくれるのですが、周到に用意された隙間や空間がその役を担う表現法で日本人はこの感覚を余白に価値づけたのです。

空間においてあるもの同士の間の空間は隙間である。日本の建築では間(ま)という。長さの単位として「一間」(182センチ)として使われる柱と柱の間のことをさしました。

時間においては、間の時間、暇な時間ということもいいます。
日本の音楽、舞踊、能などでリズムやメロディーの変わり目、セリフとセリフのわずかな無音の瞬間などの「間」は、心を動かす起点になります。

ひとつの言葉が、空間と時間の両方に使われていることは、日本人の時間空間論を端的に表しているのでしょう。

空間は、時間の流れによって変化するものです。

空間と時間を一体にしている概念を「」とするのは日本人が育んできた感性であり、自然観なのです。

「間」が良いか悪いかは、直感の世界です。空間、時間、そのどちらも何もない部分のほどの良さを重視しています。

「間」が良いか悪いかは、直感で感じるものですから、日本文化の美とは、この「間」の良し悪しなのです。

絵画では平面の間こそが「余白」です。
何も描かれていない部分に細心の注意を払って、その一画面を構成します。

余白は、主題をより引き立てて、動きを与え、画面をドラマチックにするものです。
描かれている部分と、描かれていない部分が等価値であり、それによって見る人の心に迫ります。これが余白の美となります。

先回の記事では、粘土の塊から容器をつくる時それを有用にするのは、容器の内側に何もない空間があるからとした。

部屋のために扉や窓をつくる。その部屋を住みやすくするのは、これらの何もない空間である。有形のものは便利であるが、それを有用にするのは無形のものなのである。

作陶で粘土をこねて器を作るとき器には空間の無があるから容器として使えるし、家も、空間という無があるから建築して住むことができる。これを「無用の用」といいました。

まさしくこれが絵画で言うところの余白となるのだろう。
分かりやすいのは枯山水の庭です。枯山水は水の無い庭です。禅寺で発展した枯山水は、水を引き算することで水を感じさせるという想像のための余白が存在し、白砂や小石から水面を連想する見立てによる世界観を形作っています。


長谷川等伯による国宝の水墨画「松林図屏風」は、木々の間に多くの余白を残しています。
余白は、大気であり、霧であり、それに覆い隠された無数の松であり、土であり、限定しないイメージの拡がりが沸き起こります。このイメージの源泉というべき場所を西田幾多郎は、哲学し仏教では虚空といいあらわす。

何も妨げるものがなく、すべてのものの存在する場所であり、空または虚空界ともいう。虚空界とは、虚空のように一切を内に秘め内臓する。色もなく形もない本源的な真実なる世界である。体用論でいう体と同義である。

色も形もないのに私たちが日本画や墨絵を見るときに余白を感じるのは輪郭線によって現れる、即ち虚空の形無き、色無きを見ていると言えるのでしょう。それが余韻となってみる者の感動を引き起こすのです。これは能楽をはじめとする日本文化全体に係るものなのでしょう。





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