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言葉と自己 その1
中国の禅匠「雲門」が侍者「澄遠」に「遠侍者」と呼びかけた時、「澄遠」が「ハイ」と答えた。
師、雲門は「これ何ぞ」と問いたという。「ハイ」の中に「澄遠」自身丸出しになっているのに「これ何ぞ」と敢えて問いた師に答えることがで来なかった。
彼はこの答えに15年の月日をかけたという。私も父親の死に臨み自己の実在に悩み鎌倉の禅寺に座ったことがある。
私自身、本来直感力も弱く意志も薄弱なため禅の向上もならず、この「オイ」に対する「ハイ」という自己を問うことが実は答えの現前だという事実が理解できずにいた。今考えればこれは、「自己という問い」の公案に他ならないのだろう。
問いかけの「オイ」もその受動語の「ハイ」もあまり意味性のないことからコミニュケーションのツールとして言葉の根底にある根源語といえよう。
根源語とはそこから意味性の発生する符号のようなものとしたらいいのだろう。「オイ」または名前を呼ばれ「ハイ」と答えるその当体、その者は誰れなのかというのが今回のテーマなのです。
この短い受け答えの意味を理解するのに、澄遠は15年の歳月をかけたというのだ。このテキストの出所は中国は禅のテキスト「碧厳録」です。禅は自己を問うのが本義ですから、この設問は真の自己からの呼びかけを真の自己である相手が受け止め返事をする事に物事の真実、実在が露になっているという説明なのでしょう。
自己が存在する世界はある種の場所である。その場所は自己と深い関りをもつ相互関係という場所であって、私が自己を知る、実在に目覚めるということはこの場所を知るということに他ならない。
私はこの身体によりこの場所に付属しながら世界を知覚しているのだ。私の精神というべき言葉もその場所にとても密接な関係がありそこから述語的世界の展開がある。判断の背後に述語面があるということです。
何処までも主語は述語において存在するのであって先に述べた場所というのも自分と物が共にそこに「於いてある(事物、人物など、それに関連すること)」場所なのだ。
つまり存在を根源的に可能ならしめている場所は述語に支えられているのである。
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