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道元

episode1 まえがき

絶望しかけたら道元を読めという。それほどに奥深く難しいことかと思ってきた。現代人の一人として易しい英文は何とか読めても漢文は読めない。
昔、本屋の専門コーナに 寄り手に取った本が まさしく全漢字の 正法眼蔵。直ぐ書棚に戻した。
然しながら福井県の永平寺に立ち寄ればその清々しい清浄な雰囲気は圧倒される。京都の臨済宗大本山群の雰囲気とは全く違った印象を受けた。強いて言えば高野山に似るのか。

福井県の山里、単なる観光とも思えない多くの善男 善女の群れ。そして修行に明け暮れる僧侶たちの真剣な眼差し。
これは分からないながらも少しは勉強する価値はありそうと思い返した。

道元といえば正法眼蔵、易しそうな入門書を漁った。

人は何にを指針に生きればいいのか。自分とはなにか、悟りとは、禅とは、修行とはどういうことなのか。その辺りの疑問があれば道元の足元に辿りつけるだろう。

何故ならば道元もおなじ人間である。鈍たる自分と同じことを考えたに違いない。

こうした疑問に生涯をかけ正面から取りくんだのだろう。生涯をかけたからこそ宗教史上に屹立する大思想家となり、およそ人生に悩む世界中の人々の指針になり得たのだろう。

このような人を禅では覚者という。
この偉大なる覚者の凝縮された珠玉の言葉を辿れば鈍といえども何か生涯の手引きをつかむことができるであろう。

人は孤独です.ですから一人で生まれ、一人で死んでいかねばなりません。人生は孤独です。社会、他人、 外に向かって問いかけても答えは出ません。

外に向かっている意識の対象を内に向けなければ人間としての個の悩みは解決しないのだろう。

自己の内に向けた意識は肝心のこの自己がいちばん頼りにならないと分ってきます。

では私はどうすればいいのか。私と同じ幾人かは道元の名を聞いた時、宗教哲学の古典『正法眼蔵』を読もうと思い立つでしょう。
本当の自分を探すために。

「正法眼蔵」を理解していく踏み台として、適切な書が必要とするだろうが禅宗だとか、曹洞宗だとかでなく単なる宗派を離れ仏教の正伝ということに、道元禅師がどれほど徹底して正法眼蔵を説いたか、この眼目を抑えることが必用となるのだろう。
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