岡倉天心
文部省職員であった岡倉天心は東京美術学校(現在の東京藝術大学)の開校準備に奔走します。開校後の明治23年(1890)27歳の若さで同校二代目の校長になった。
近代国家にふさわしい新しい絵画の創造をめざし、横山大観、下村観山、菱田春草ら気鋭の作家を育てたのです。
急進的な日本画改革を進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受け学校内部の確執に端を発した東京美術学校騒動により、明治31年(1898)校長の職を退きます。
当時のヨーロッパ美術界に於いても若い気鋭の芸術家たちはサロン絵画の古臭いセンスに飽き飽きしていて、常に息苦しさと新しい芸術への飢餓感を感じていたことから世界の美術界の潮流を知る天心の改革機運はそこに原点ががあったのでしょう。。
その半年後彼に付き従った橋本雅邦(がほう)をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設しました。その日本美術院の活動もとん挫します。
東洋文化の源流を自ら確かめるべき決意で天心は、インド各地の仏教遺跡を巡ります。インド滞在中に『The Ideals of the East(東洋の理想)』を書き上げています。
同37年(1904)、アメリカに渡った天心は、ボストン美術館の中国・日本美術部に迎えられ、東洋美術品の整理や目録作成を行い、講演会や英文の著作『The Book of Tea(茶の本)』などを通して日本や東洋の文化を欧米に紹介しました。その後、天心は日本の五浦とボストンを往復する生活を送ることになりました。
五浦に居を構えた天心は日本美術院の再建を目指します。大観ら五浦の作家達は、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、同40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、近代日本画史に残る名作を発表していきました。
明治43年(1910)にはボストン美術館の中国・日本美術部長に就任しています。大正元年(1912)夏、ボストンに向かった天心は途中インドで、女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー(1871-1935)と出会います。以後二人の間にラブレターともいえる往復書簡が天心の亡くなるまでの1年間交わされました。
1912年、天心は最後のボストン勤務となるアメリカ行きのため、横浜を出港して経由地のインドに向かいます。カルカッタ(現在のコルカタ)に到着すると、天心は詩人ラビンドナラート・タゴールの甥で旧知のスレンドラナート・タゴールに迎えられ、その家の客となります。
そこで出会ったのが、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー夫人。天心が生涯最後の運命的な恋におちた女性です。以下『NHK100分de名著 岡倉天心 茶の本』より転用
バネルジー夫人は、天心より9歳年下でこのとき41歳。ベンガル地方の名家出身で、タゴールの遠縁にあたる未亡人でした。また、彼女は生涯に五冊の詩集を出した詩人でもありました。
このときの天心のインド滞在は一か月弱の短いもので、ゆっくりふたりきりの時間をもつようなことは難しかったと思われます。しかし、天心がインドを離れたあと、ふたりは文通を通じて急速に接近していったのです。
この、天心とバネルジー夫人が交わした手紙のやりとりは、長らく埋もれて知られていませんでしたが、第二次世界大戦後、まずインドにおいて、バネルジー夫人の遺品中に天心からの来信19通が、ついで、日本において、天心の弟由三郎の手元に保管されていた夫人から天心あての来信13通が、それぞれ発見され、大きな反響を呼び起こしました。
というのも、そこには、夫人に対し赤裸々に自分の弱さをさらけ出す、天心の知られざる姿があったからです。年齢ではすでに50歳に達しようとし、これまで英雄的といってよいような行動力、指導力でさまざまな事業を成し遂げ、人々を率いてきた天心が、そこでは手放しで泣き叫び、愛と保護を求めてもだえていたのです。
天心が、このように手紙の中で自分の気持ちを吐露(とろ)した背景には、そのころ急速に悪化しつつあった自身の健康状態の影響もあったと思われます。
ボストンでの勤務を続けることが難しくなった天心は、帰国を決意し、1913年4月に日本に到着すると、五浦での療養生活に入りました。そして、六角堂から眼前に広がる太平洋を眺めながら、バネルジー夫人に手紙を書き送るのです。
日本に戻ってから最初の便りでは、次のように自分の様子を伝えています。
私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。
写真は旧宅のあった五浦の記念堂
空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。
こうした海への思いは、五浦に戻ってからの天心の手紙にはくりかえしあらわれるものです。天心は、小船に乗った自分を港(バネルジー夫人)にたどり着かせてくれる風が吹かないものかと願う詩を書いたり、ふたりの精霊が太平洋の真ん中で出会う様を夢想する手紙を書いたりもしています。
五浦で太平洋の大海原を前にして、天心は、この海こそが、国境とか国際情勢とかの人為的な障壁を越えて直接的な精神の交流を可能にし、まさにアジアの一体性を実現する自然の場であることを実感したのでしょう。
五浦は決してアクセスのよい場所ではありませんが、実際に行ってみると、東京などにいるよりもむしろ、インドやアメリカとダイレクトにコミュニケーションできるという彼が得た感覚を、いまでも追体験することができます。
1913年8月、いよいよ天心に最期の時が近づいてきました。そのとき五浦から天心が送った手紙には、「くりかえし、くりかえしペンをとりあげましたが、驚くことに、何も書くべきことがありません」という一行に始まる、死に直面して呆然としているような思いがつづられています。
その十数日後、天心は家族に付き添われて新潟県赤倉の山荘に移ります。そして、その病床から最後の手紙をバネルジー夫人に書き送りました。ここで初めて、天心はそれまで隠してきた病状を率直に打ち明けたうえで、死を受け入れた自分のいまの思いを次のように記すのです。
これまであんなに頑健だった私が、やっと、生きることの喜びを味わい始めたその時に、こうして病に倒れねばならないというのは、なんと奇妙なめぐりあわせでしょう。
きっと、若い時に、野蛮な無茶ばかりしてきた罰があたったのでしょう。しかし、私は宇宙と全くうまくやっており、宇宙からこの頃与えられるものに対して感謝、そう、大変感謝しています。
私は本当に満足しており、暴れだしたいくらい幸せです。この部屋まで入り込んできて、枕のまわりで渦巻いている雲に向かって笑いかけるほどです。
8月24日、天心は腎臓病に心臓病を併発、29日、さらに尿毒症をも発して重体に陥ります。急をきいて東京から弟由三郎、弟子の横山大観、下村観山らが駆けつけましたが、そのまま、9月2日早朝、天心は五十年の生涯を閉じました。翌日、家族や弟子たちに護られて東京に戻る遺骸をおさめた棺は、最後は花こそが私たちとともにあるとした天心の言葉をなぞるように、赤倉の山に咲き乱れる秋の野花で覆われていたと言います。
新潟県の妙高山の麓にある赤倉温泉は山好きの私にとっては思いで深い場所です。火打山から妙高山へ抜けるルートの紅葉の素晴らしさはどんな才能ある画家でもその色を見出せないだろうと思ったほどです。殊に黄葉の始まった生命の樹というべきブナの自然林は生きとし生きるものに命の賛歌を歌いあげているようでした。
その様な清浄の地、妙高に日本美術界に多大な功績をあげ50歳の若さで世を去った岡倉天心が最後を迎えていたのは知りませんでした。
彼の功績は先ず「東洋の理想」、「日本の覚醒」、「茶の本」という著書を英文で執筆し、東洋や日本の美術、文化を西洋社会に向けて紹介する国際人として活躍したことでしょう。
次にあげれば新しい日本美術の創造を目指し、精力的な活動を行い、横山大観をはじめ有為な青年画家を育て世に送り出し生涯を日本美術の発展に捧げたことに尽きるのでしょう。
その他忘れてはならないものは廃仏毀釈で荒れた仏教文化財を守った事でしす。廃仏毀釈の象徴的攻撃となった奈良興福寺では二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことが分かっています。
僧侶は還俗を強制されたり神官になるように脅迫されたという。国宝五重塔は薪材として二十五円(一説には十円)で売りに出されたという。
岡倉天心は身を挺して興福寺文化財を守った。彼は長州人を中心とした西欧絶対主義者たちによって職を追われましたがそれにも拘わらずその後も地道に文化財修復に当たった。
もし天心がいなかったなら今日、興福寺はその姿を留めてはいなかっただろう。