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ひかりあてられしもの 3

序章3、フランシスコ・ザビエルの来日と日本布教-序章2から
スペイン生まれのキリスト教宣教師、フランシスコ・ザビエル(1506~1552)は1549(天文十八年)年に来日した。

彼は上陸した薩摩でキリスト教の布教を 始める傍ら、日本人や日本社会を観察して複数の書簡をしたためた。

第一報は自分を鹿児島まで送った中国船に託し、その後も平戸や山口 京都、豊後の情報をまとめて帰路のコーチン(インド南部のケーララ州の都市でインドの主要産業都市である。現在はコーチと呼ばれる)から発信した。

それらはゴア(インドの都市―1530年、ポルトガル領インドの首府はコーチンからゴアに移され、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在した。

ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれ、多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機にサンタ・カタリナ大聖堂が建設された。

17世紀初頭のゴアはモザンビークから長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えた。)

―からローマなどに送られた。 特にヨーロッパの聖職者たちはその書簡を見て 極東における布教を大いに喜んだのです。ザビエルは日本を 去ったのち、中国布教の途上で死去します。

ザビエルの書簡を紐解けば、当時の日本布教の難しさ、喜び、日本人の特性がよく表現され参考になる。さらに言えば、数百年間も潜伏した隠れキリシタンとか潜伏キリシタンともいわれる強固な信仰心を維持した長崎の信者の精神風土のようなものが垣間見えるのです。
書簡の内容に少し触れてみよう。

「私達が、今までの接触によって、知ることの出来た限りにおいて、日本国民は、私が遭遇した様々な国民の中で、一番傑出している。

日本人は、大抵、貧乏であるが、武士と平民を問わず、貧乏を恥と思っている者は、一人もいない。日本人は、キリスト教国民の持っていない一つの特質がある。

それは、武士がいかに貧乏であろうとも、平民の者がいかに富裕であろうとも、貧乏な武士が富裕な平民から富豪と同じように尊敬されていることである。

日本人は、侮辱や嘲笑を黙って忍んでいることはない。日本人は、妻を一人しか持たず、窃盗は極めて希である。日本人は、私の見た他の如何なる国民よりも、理性の声に従順な民族である。

非常に克己心(欲望を抑える心)が強く、議論に長じ、質問は限りがなく、知識欲に富んでいる。

私達の答えに、満足すると、熱心に他の人々に伝えるのである。」
日本の各地でザビエルは布教するのですが、出会った日本人が彼に決まって尋ねた事があった。それは、「そんなにありがたい教えが、なぜ今まで日本にこなかったのか」ということでした。

そして、「そのありがたい教えを聞かなかったわれわれの祖先は、今、どこでどうしているのか」ということでした。

つまり、自分たちは洗礼を受けて救われるかもしれないけれども、洗礼を受けず死んでしまったご先祖はどうなるのか、やっぱり地獄に落ちているのか。」

当時の日本人はザビエルにこういう質問を投げかけました。元来、キリスト教においては、洗礼を受けてない人は皆地獄だからです。
ザビエルは日本人との間でこんな問答をしています。

続く

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