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散る桜 残る桜も 散る桜 (良寛和尚)

江戸時代の曹洞宗の僧侶で、歌人でもあった良寛の辞世の句と言われている歌です。

意味は、「心せよ、どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散る。」ということなのだろうが、さらにうがった見方をすれば、

「無限に続くと思われる散り桜が美しいのは、散り残る桜があってのこと。見る者は、表面的なものを見るのではなくそれを支える本質を見なければならない」となるのであろう。

良寛は出家者である。彼の出世間の本義は悟りである。死に際し、はらはらと舞い散る桜に隠れた無常観、命の本質を悟ったのだろう。

中国の六朝以後,仏教において頻繁に用いられた概念に体と用がある。 宋学や明学の儒者にも多用された概念だ。

基本的な意味は,本体と作用 (または現象,属性) で,両者は表裏一体とされる。

能楽の大成者世阿弥の言葉に「知る者は、心で見、知らざる者は目で見る」がある。

「能を見ること、知るものは心にて見、知らざるは目にて見るなり」
通常、凡人では、目で見た現象、事象をそのまま捉えてしまう。

様々な事柄には実際には裏からの見方では違う捕らえ方になります。また現象そのものでは見えてこない本来のものの在り方をみることも重要なことです。

世阿弥の言葉は、芸の稽古などをする際、上手の真似、または対象者(たとえば老いた人や女性など)のうわべの動作だけを真似るのでは不十分で、本当になりきることが大切であることを説いています。

世阿弥の解説本などにも、この言葉の解説に、体用(たいゆう)論が出てきます。

この体用論とは現象の「本体」とその「作用」のことである。

咲いている花が体であるならば、花から香る匂いは用である。剣術を習うものが剣を振り下ろす動作が用ならば、将に振りかざそうとする心が体である、ということです。

この体用論のいうところは、うわべの作用だけを見るのではなく、その本(もと)、心をみてまねなければならないということです。

日本の諸道、芸術においてはこういった目で見るだけではなく、心でみていかなければ深くは理解できないものが多いのです。


単に鑑賞ではない、鑑賞者の心(想像力)をもって完成するのが芸術であるならば、鑑賞者もそれなりの経験と力量(知識)が必要になってくるということです。


秀吉に対する利休のように、一輪の桜の花びらを活けて、満開の姿を想像させたり、直接見えないもの、聞こえないものからの想像力(創造力)を問われることがあることを私たちは、肝に銘じなければならない。

世阿弥能楽論の体と用という概念 は、用は肉眼で見えるが体は心眼で捉えるものであり、用は体に伴って存在する〔「体・ 用事」。

、体とは演者の内に秘めた心であり、用はそ の演者が演じることにより醸し出す趣であるといえる。

この心と趣は一心同体である。芸とは体から発せられる趣(懸) と言い換えることができ、この趣の美は体として存在し用として現象する。

すなわち能楽 という芸能は、演者の心による趣(現象)であるため感じ取るものである。ゆえにこの趣 は、演者が心により表し観客は心によって感じる能楽の面白さと表現できる。

花と面白さ は同様であるから、この趣は花と置き換えることができる。そうすれば、花は見るもので はなく感じるものであるということになる


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