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久松真一その思想と生き様4

中世は自己が主体ではなく、他律的宗教律が人間を支配したが、近代に至り理性哲学が確立し人間は神から自立した。しかし人間存在の矛盾(生死、善悪は存在非存在、価値反価値の問題)二律背反を理性は解決できない。

中世以前からの他律から脱し、自律の近代理性を手にしても人は苦から脱し得ないのである。

久松はこの自律、他律、無神論の統合としての在り方をポストモダンの人間像として提起したのである。

ともすれば歴史的禅の世界は寺院の中に篭り、自己の探求のみに終始したきらいがある。彼はこれを批判し自己の自覚がこの現実世界の中で働き多くの不幸を作ってきた今までの歴史を反省し主体的に新しい歴史の創造を希求したのである。

久松は人間のあり方を五つに分類している。

第一の人間像 理想主義的人間
近代の人間は確かに、人間性の自覚ということを根底として成り立っている。この立場は人間性の直接肯定の上に成立しているため自己批判を欠いている立場である。
理性的自立の限界を知らずしてただ楽天的であるからして、やがて迫りくる死の問題、即ち自己否定に媒介されることがないままただ生の側面の把握のみにとどまる立場であるから自己に内在する矛盾が表面化してくると存在的にも価値的にも自己否定に陥らざるをえない。

人間中心的な人間像が絶対否定に直面しそこに絶対無が見いだされるようになった時次にあげる第二の虚無主義的人間像が出現するという。

第二の虚無主義的人間像
現代の人間は死の問題等自己の存在を脅かす恐怖や不安が目の前の大津波のように迫りくるのを感じ虚脱状態に陥る。
その様な時にあっても、中世的な神仏信仰にも帰ることもできない。かくして人間は自己の肯定面が皆無となり、果てしない絶望に自殺さえもできない絶対的ジレンマに陥るのが虚無的人間像である。

第三の実存主義的人間像
第二の人間像は、虚無に直面した時にただ絶望するばかりで主体的に事に取り組もうとしないが第三の人間像は虚無に対して積極的に取り組み主体化(自分化)された虚無と自己とを一体にするところに成立する人間像である。換言すれば主体的に虚無に立脚した立場である。

これには二つの立場があり、一つは真のデカダンス的・・デカダンスとは自暴自棄的な生き方であるが人間の絶対死を運命と自覚し何とか積極的に生への道を模索する本当の深みに徹した生き方である。ドフトイェーフスキーの文学のように「人間のどん底が分かる」ということは「絶望をくぐってきた大きな深い知恵」であって宗教への契機となるものだ。デカダンスを理解できない理想主義は「人間のどん底」が決してわかることがないという。

もう一つは、文字道理、実存主義となずけられたものである。実存主義は人間の絶対否定とか絶対の不安という自覚をはっきり持つがこれを克服できな人間像である。

第四の宗教的人間像
第四の人間像は、実存主義を批判的に乗り越えたものである。久松は絶対否定の克服は「絶対否定を孕む危機的人間に死んで、新たな人間、すなわち真の人間に蘇ること」によって可能であるという。
先に挙げた実存主義的人間の無力を目の前にした人間は「何某かの他力」に依存する必要に迫られる。絶対否定的な自分の立場を自分ではなく信仰の力で絶対否定から絶対肯定へと転じることに期待する人間像を宗教的人間像と名付けたのだ。神という立場の神律が人間の自律の上に立つ立場である。

第五の絶対自律的人間像
一切の受動性を克服し絶対的能動者に立つ立場である。それは近世的自律に対する一切の否定・反対を悉く経験、止揚することで成し遂げられる立場である。

したがってかかる絶対否定の究極に達し得て出てくるものは、他者とか絶対他者ではなく絶対なる自者と呼ばれるものである。神仏は超越的なものではなく現在的、本来のもの、自性であるという自覚である。

絶対自律的人間像は第四の神律と第一の自律その両者の統合(止揚)して、できた一つの律で私たち現代においても近未来においても本当の絶対的な自律になるのだろう。
このように、近代人の生死観を弁証法的に問い、現代の危機神学的人間像を超えたものは、そのあとに位置付けられた絶対自律的人間像となり、後近代Post modernへの活路となるのであろう。
終わり


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