見出し画像

密教の仏 愛染明王

『修験道と愛染明王
 空海のもたらした密教の仏たちを代表するのが明王である。そのうちの愛染明王はその名の如く「恋愛・縁結び・家庭円満」などを司る仏として古くから信仰が行われている。

さらに愛欲を否定しない密教の教義から古くは遊女の信仰対象にもなっている。

吉野山金峯山寺および大峯山寺の本尊が、蔵王権現である。仏教の仏とも神道の神とも似つかない独特の尊格である。

金峯山寺の本尊は3体の蔵王権現で火焔を背負い、頭髪は逆立ち、目を吊り上げ、口を大きく開いて忿怒の相を表し、片足を高く上げて虚空を踏むものである。

画像1

これらの像はやはり密教の愛染明王の影響があったのは明瞭ですが、修験道の尊像自体は、日本独自のもので、インドや中国起源でない。密教彫像などの影響を受けつつ、日本で独自に創造されたものと考える。

修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際、祈りの中に出現したものである。

これこそ山岳修験道が神道や仏教の影響を受けつつ独自に発展を遂げた理由なのだ。

修験道自体、煩悩多き一般人主体の山伏という信仰集団であるから彼等の本尊が、愛欲煩悩の象徴愛染明王から姿、形、思想の影響を受けたのは当然であろう。

一般には煩悩と悟りである菩提とは相対立するものとしてとらえられるが、両者ともその本質は真如である。真如とは

、永久不変の真理であり、宇宙万有にあまねく存在するを決定づける根元的なものである。

煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。こにような在り方を、二つであって、しかも二つではないことから而二不二(ににふに)という。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。

色即是空 空即是色は般若心経の根本です。私たちが身を置くこの世界、色(物質的)は、固定した実体や我がない空であり、それ自体がすべて真如のあらわれである。

色なる世界があってこそ空の世界があり、コインの裏表のような存在である。煩悩の概念そのものがなければ、相対的な悟りの概念もない。また、悟りも悟りを妨げる煩悩もその本体は真実不変の真如のあらわれと説くのが大乗仏教である。

それゆえ、煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に、菩提なくして煩悩から離れることはない。これを「煩悩即菩提」と言うのだ。

真理(真如)の立場からすれば、煩悩こそがそのまま菩提に他ならないという現実肯定的な大乗仏教の立場を強調したのが『煩悩即菩提』でありその燃え盛る激しい煩悩の象徴、愛欲を形にしたのが愛染明王です。

密教は、男女の愛や性を肯定する教義(きょうぎ)をもっています。
本当に愛する男女が、お互いに心から愛しあい、高め合い、肉体的にも、精神的にも結びつく事は、菩薩(ぼさつ)の境地であり、法悦(ほうえつ)であると いうものです。

しかし愛欲は強いもの、これに溺れずこの強さを悟りへの強い支えとするようにと象徴したのが愛染明王なのであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?