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徳川家康 第二部 その三

写真は家康正妻の築山殿(築山御前)が惨殺された佐鳴湖畔

信長遭難を知った枚方で家康は事の重大さを知った。領国から遠く離れた大阪の地で信長公を討った光秀は指呼の距離京に1万3千もの兵といる。自分は重臣とともに三十数名、何もできない人数だ。逃れることはできないだろう。できるなら阿弥陀仏のいる知恩院で死のうと思った。

そして死ぬ前、阿弥陀仏の前で一つの懺悔をして死んでいきたいと真に思った。

それは築山御前の霊に対してであった。二人は家康(元信)が今川家の人質であった弘治3年(1557年)に政略結婚した。人質として過ごしたため家康には築山御前が最初の女性であった。三年後には嫡男・信康が生まれ、翌年には娘・亀姫が生まれた。人質として過ごす家康を築山御前は優しく接し二人はとても仲良かった。

桶狭間の戦いで義元が討たれ、家康は今川家家中の混乱の中で念願の岡崎城に入り、尾張の織田信長と清洲同盟を結んで今川家からの独立を果たした。
この時、築山殿の父・関口親永は今川氏真の怒りを買って正室と共に自害している。この負い目を家康は生涯負っていた。

妻子を奪還したい家康は今川当主氏真の縁者を捕らえ、重臣・石川数正が氏真を説得して人質交換ということになり、築山殿と信康・亀姫は命を助けられ岡崎城に戻った。

しかし、今川家に縁がある築山殿は家康の命により岡崎城に入ることを許されず、夫婦の間に溝が出来た。(家康が築山殿を遠ざけたのには信長への配慮があったとされている)

家康は遠江国を制圧して拠点を浜松城に移し、岡崎城はまだ幼かった信康が城主となって築山殿も共に岡崎城に入った。
この当時、今川氏の力は弱まったとはいえ、背後の武田氏が家康領内を虎視眈々と狙っていた。

そこで家康は信長との同盟を深めるために、信長の娘・徳姫を信康の正室に迎えた。
二人の間には娘が二人誕生したが男子が生まれなかった。そこで築山殿は元武田家の家臣の娘で部屋子をしていた二人を信康の側室にしたが、そのことを徳姫は良く思わなかった。
戦国の世で武家が側室を持つことは当然であり、築山殿としては当たり前のことをしたのだが、徳姫の恨みを買った。

天正7年(1579年)徳姫は信長に「12か条の手紙」を送ったが、その内容は

「信康の乱暴な振舞い、築山殿が自分と信康の仲を裂こうとしている、築山殿が徳姫に対して意地悪をする、武田家の家臣の娘を信康の側室にした、信康と築山殿が敵である武田家と内通している、築山殿が唐人の医師と密通している」

というものであった。

当然、信長は激怒し、家康に信康と築山殿の処刑を命じた。
信長に逆らうことが出来ない家康は、泣く泣く腹心の家臣に二人の殺害を命じ、同年8月29日に築山殿が殺害され、9月15日には信康が切腹した。

以上通説とされたものはこのような話だ。

何故徳姫が築山殿の武田家との内通を知ったのかという点であるがこれが先ず問題点だ。築山殿とは別居しているし、よそ者の徳姫が徳川家内でそこまでの諜報活動はできない話だ。

築山殿が女性二人を信康の側室に迎えたことで徳姫が腹を立てたという件も、この時代側室を持つことは武家としては当然だ。
築山殿が唐人医師と密通があったとされているが、これも築山殿を貶める中傷だ。

徳姫が信長に12か条の書状を送ったとされているが、一説では家康の重臣・酒井忠次が信長に会いに行く予定があり、徳姫が忠次に手紙を託して届けさせたという。そのような内容の書状を家康の重臣・忠次が信長にわざわざ届けるというのもおかしく、もし託されたならば信長ではなくまず家康のもとに先に届けるのが筋だと誰もが思うだろう。

また、書状を読んだ信長が激怒して、信長の前で申し開きをした酒井忠次は12のうち10は本当だと認めたという。
重臣・忠次が嫡男や正室のことを貶める内容をあっさりと認めることも不可解である。忠次はその後も徳川家で順調に出世している。

信長ほどの人物が家康に確認もせずに、手紙の内容だけで家康の正室と娘婿とを殺すように命じたことも不思議だ。
唯一の公文書「信長公記」にはなにも書かれてい。

信康と嫁徳姫は不仲かであった。この事件の真相は家康と信康親子の確執であり信康が相当な重罪を犯したことなのだ。

家康が浜松城を居城にしたことで武功を挙げるのは前線の浜松城の家臣たちとなり、岡崎城の信康の家臣たちは殿(しんがり)や後方支援など余り武功を挙げるチャンスを得られなかった。

そのことで家臣団が浜松派と岡崎派で対立した。家臣団の対立の最中、家康が娘・亀姫を信玄没後の武田方の武将・奥平信昌のもとに嫁がせた。その後、奥平信昌は徳川側につくことになるが、このことに信康は強硬に反対して家康と意見が合わなかった。

信康を担いだ岡崎派による「家康追放」計画が明らかとなり、このクーデタに築山殿も直接関わっていたという事項をシナリオに家康自身が書き加えたのだろう。

そこで家康は信康の義父でもある信長のもとに重臣・忠次を送って、信康切腹の許可を取った。
徳姫の信長への訴状は嘘であり、家康の方から「信康が武田と内通して謀反を起こした。あなたの娘婿ですが切腹させます。よろしいでしょうね」とお伺いを立てたのだ。
信長は暗黙に首だけを下げた。

その後、家康は信康を大浜城に移し、岡崎の信康家臣団に起請文を書かせて信康と分断した。
信康は大浜城から堀江城に移され、天正7年(1577年)8月10日には二俣城に幽閉されてしまう。

家康の信康切腹の決断を知った築山殿は岡崎から東海道を東へと進み、浜松城の家康のもとに信康の助命嘆願に向かったが、その途中の8月29日、家康の家臣である野中重政・岡本時仲・石川義房によって佐鳴湖の湖岸で築山殿は殺害された。享年39歳であった。

同年9月15日、信康は幽閉先の二俣城で服部半蔵の介錯で切腹して果てた。短気な性格であったが文武に優れた21歳、有為の青年武将であった。

戦国の世を終わらせた家康は死後「東照大権現」と神格化された。
神格化された家康の半生の中で嫡男・信康の切腹と築山殿惨殺は外部には漏らせぬ如何ともできない徳川家の暗黒史であった。神には世俗の失敗は許されないのだ。

築山殿を謀反の張本人としたのは他ならず家康自身であろう。、信長の死後知らぬは仏とばかり徳姫12か条の訴文を捏造したのも家康だ。

家康を神君とし祭り上げたい者達は密かに家康自身から事の真相を聞いていたであろう。

「信康切腹事件と築山殿殺害事件」は徳川家康自身、生涯の悔恨であった。徳川家分裂という非常事態を避けるため取った措置とはいえ母子殺害は世間には不道徳であった。

家康としては、あの世に行く前に築山殿に懺悔をという心境だったのだろう。しかし伊賀越えという生きる道を選び無事生還した。

清州同盟は周囲を敵に囲まれた徳川家としては守るべき最優先事項である。それを破りかねない信康母子を武田内通者としておけば、家中では誰も文句はいえない。

神君とも仰ぐべき家康を批判して、お家消滅の危i機を招いたのは、あってはならないこと。事の隠蔽は母子を武田内通者とこじつけ、でっち上げたのが築山殿事件の真相だった。

長男信康を死なせたことは自分の後継将軍指名の迷いが咎として残った。関が原の合戦に遅れた凡庸な3男秀忠では心もとなかった。信康を生かせなかった後悔に苛まされたのである。

徳川家康第二部その四

https://note.com/rokurou0313/n/n7580c4f5ac78


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