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小泉八雲の生涯ー8

熊本時代

写真は八雲が在籍した熊本第五高等中学のレンガ校舎。

松江の冬の寒さに耐えかねたのと彼の俸給で支える小泉家の眷属の多さからより俸給の高い熊本第五高等中学校の英語教師になることを決心した八雲は明治24年1891年西南戦争の戦後復興が進む熊本に到着した。

鉄道は熊本駅まで伸び、町はヨーロッパ風に近代化が進められていたが何事も西洋の模倣が基調で勤務する熊本第五高等中学校の赤煉瓦の校舎を見て「兵舎と同じ」と思い、「わたしの感性には合わない土地」と友人に書き送った。

熊本は松江に比べてはるかに都会ではあったが、ハーンが思い描いた日本のイメージからは遠く離れていたのだ。

「熊本に失望した」と言いながらも、一方で都会ならではの生活もある意味で気に入ってはいた。

松江時代、ハーンは日本食を好んでいたが、消化不良を起こして体調を崩していたが、洋食屋や洋酒屋などが揃う熊本に来てからは体重も増え、ゆで卵を2~3個とブランデーを飲んで学校に向かうのが日課になっていたという。

健康も回復し長男・一雄も誕生したハーンは、旺盛な創作意欲を持って文筆活動に励むことになるのだ。

五高での経験は、八雲にとっては大変知的な生活体験であった。九州は古来から文化の進んだところであり、学問も日本の西国の中心地であり、九州各地からまた山口・四国から集まったエリートたちは優秀で、日本の田舎にある松江中学の幼さの残る残る学生たちとは比較にならなかったのだ。

八雲に対し人生観、歴史観、文明論、宗教論を戦わせても十分な見識を持ち八雲自身がその刺激を受けた。彼らとの討論は多くが自作に反映され執筆活動そのものが生涯一番の脂が乗った時期といえる。

八雲の代表作で来日後第1作目となる「知られざる日本の面影」は松江時代を書いたものだが、熊本で執筆されている。

また、熊本を舞台とした作品では、五高裏手にある小峰墓地で巡らせた思いを綴った「石仏」や長崎旅行の帰りに立ち寄った三角西港の宿屋浦島屋での出来事を綴った「夏の日の夢」。私の関心をよん日清戦争時の本妙寺が登場する「願望成就https://note.com/rokurou0313/n/nf068586a2444 Note収録」は自著『日本人の死生観』の参考資料となった。

五高生との交流や授業のやり取りを描いた「九州の学生とともに」や巡査殺しの重罪人が熊本に護送され、停車場(現上熊本駅)まで見物に行った「停車場で」などが「東の国から」や「心」、「日本雑記」に収録されている。
ハーンは、熊本を離れた翌年の明治28年(1895)に帰化し「小泉八雲」に改名した。

「熊本の3年間は、私の文学修行の中で最も意義ある3年間であった」と後に振り返っているように、熊本は「日本の心」を真に理解する文筆家としての再出発の地となった。

私は前章でハーンが日本国籍を取得し小泉八雲となったのは松江時代としたが、正確には熊本時代であった。併せて訂正したい。

なおこの章はWebの記事から一部転用させていただいた。

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