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つらつら椿

椿が好きだ。京都は「哲学の道」にある法然院の山門付近はその意味で好きな散歩道の一つであった。

今日地方紙にこんな歌が掲載されていた。

河の辺の つらつら椿 つらつらに みれども飽きず 巨勢の春野は

まだ春浅い山野を歩けば深い緑の中に、赤い藪椿が灯りのように見える。少しうつむきに咲く椿はなんと可憐であろう。つい時間や自分の置かれている立場もすべてを忘れつらつら椿に見入ってしまうというという意味であろう。

「つらつらと」は副詞であり、「思う」「考える」などの動詞と併用し、「つらつらと思うに」「つらつらと考えるに」などとつかいます。

ちなみに「つらつら」だけでも使うこともあるそうです。

稀に「つらつら(と)眺める」で「じっと見つめる」という意味になりますが深く考えれば先の歌はこのような稀な使い方とともに副詞的用法にもつながる日本的な風情の表現をよくわからせてくれる言葉であり用法と思うが何よりも滑らかなその響きがよい。

西洋で作られた言語学のパラダイム(物の見方や捉え方)の根底には、近代科学と近代哲学の基盤にある、主客分離(主語中心、自己中心)、個物と因果関係のパラダイムがある。

西田幾多郎はデカルトの「我思う故に我在り」の文法上の時間軸を転倒しつつ、私は存在しないことによって存在する、という、主体と客体が分離するまえの「純粋経験」の存在論を展開した。西田は、哲学や言語学の一般通念に反し〈私〉は主格たりえないと語った。畢竟、私は私である。ならば、私とは私になったあとの私にすぎず、元来、主格ではなく述語、つまり語られる存在にすぎないのではないかと思った。

では、主語としての私は、どこにいるのだろうか。 日本語の文章では、主語はしばしば省略され、そこに在りながらそこにないことが普通におこる。主体と客体が未分化なことが自然となるが別段不思議とは思わないが、

主格が空なら、その空とは、何だろうかとか、何にが潜んでいるのかと思う。

それは、言語化以前の場所、私をふくむ世界そのものなのだ。。つまり、西田幾多郎が明らかにしたのは、世界のすべては言葉である、言語化することにより初めて世界は人間へと現前する、という言語中心主義を否定したことなのだろう。
 きょう、私は、「つらつら椿」の和歌に出会い自分がその時間と空間の一連の流れのひとつになる体験をした。私が藪の椿であり藪椿が私であるような実感だ。

まさに、忘我、我を忘れて。心は空っぽになって。
 これこそが日本人の自然観に根差す真善美なのだろう。
しばし陶然とつらつら椿に酔う。


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