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徳川家康 第二部 その六

最終話 写真は久能算東照宮

家康は大阪冬の陣、夏の陣と立て続けに豊臣陣営を攻め、徳川政権の基盤を瞬く間に打ち立てる。その後は、将軍職を息子・秀忠に譲り、駿府城に隠居。1616(元和2)年1月21日、駿府郊外へ鷹狩りに出かけ、狩りの途中で転倒し田中城(藤枝市)で休養をとった。

京都の豪商・茶屋家の3代目・茶屋四郎次郎清次が家康を見舞っている。清次の祖父は、家康の決死の伊賀越えに手を貸した茶屋家の初代・茶屋四郎次郎清延だ。

1582(天正10)年、織田信長が家臣の明智光秀に急襲されて頓死した本能寺の変。その直後、村々に金をバラまきながら、金目当ての落ち武者狩りから家康一行を救ったのが清延だ。その実績が功を奏し、茶屋家は、幕末まで幕府の御用商人のトップに君臨する。家康は、清延の孫・清次の見舞いを大いに喜んだ。

家康「近頃、上方で何か面白いものはないか?」

清次「京阪の辺では鯛を榧(かや)の油で揚げ、その上にニラをすりかけて食べる一品がございます。手前も食しましたが、なかなか美味でございました」

その時、偶然にも榊原内記清久の使いが鯛二尾と興津鯛三尾を家康に献上していた。清次の話を思い出した家康は

「早よう、その鯛を調理せい!」

と料理番を急がした。家康が食したのは、鯛を油で揚げ、ニラの醤油だれに漬け込んだ「鯛の南蛮漬け」。

家康は「うまい、うまい」といいつつ食べつくした。だが、その夜、腹痛と猛烈な下痢に襲われる。その3ヶ月後に永眠した。

天ぷら食中毒の記録は、秀吉の正室・北政所の甥に当たる木下延俊が著した『慶長日記』にある。

家康は、油料理を食べ慣れておらず、消化不良を起こしたのかもしれない。高齢のため、急な過食が死期を早めた可能性もある。ただ、食後3ヶ月の時間の経過から見ると、天ぷらの食べすぎや食中毒は、直接の死因と考えにくいが世間では鯛の天婦羅を食べ食中毒死が定説となった。

生薬にも詳しく食べ物に日ごろから気を使ってきたのに天婦羅のの食べ過ぎが原因で寿命を縮めたとは用心深い家康にとってなんとも皮肉な結果になった。

藤枝田中城は家康にとってゆかりの深い城だ。(筆者が暮らす焼津市の隣り現藤枝市にある)

今ではすっかり都市化した静岡市の西部に広がるこの地域は大井川や大小河川が作った広大な扇状地に草原や森が広がり絶好な狩場となっていた。

武家の先輩、源頼朝に倣い狩りを始めた家康専用の狩場であった。それ以上に彼にはこだわり深い場所がこの狩場であり城なのだ。

人質として過ごした駿府。その西部の拠点田中城に武田氏は侵入し占拠した。駿河経営の要として得意な築城術を駆逐し曲輪だけの田舎城を守り強い城塞化した城として変貌させていた。

駿河を手中に収める。家康の長年の夢であった。やすやすと武田に渡すことは出来ないのだ。家康は三十代にこの城を幾度も攻めた。数年がかりで漸く攻め落としたこの田中城攻防戦では四天王として家康を常に補佐した井伊直政初陣の城でもあった。

直政は遠州遠江井伊谷(いいのや)の豪族出身である。

その昔、遠州遠江平定戦の最中、家康の陣中へ一人の来訪者があった。尼から還俗し次郎法師直虎を名乗っていた女丈夫である。

彼女は井伊家存続のため幼い直政を連れ彼を家康家中に加えてくれるよう願い出たのだ。

井伊家といえば不憫な死に追いやった築山御前の出自である。そのことの慙愧に堪えない家康は即近習として召し抱え自分の警護の任に当たらせた。

後年井伊直政は駿河在住の折、田中城にしばしば逗留した。その時に夜伽に出た土地の娘に子を産ませている。その土地の娘が我が祖母方祖先の女性である。

これには余談があり未亡人、他人妻の好きな家康が直政側女に手をつけ産ませたという風聞である。関が原での戦傷が原因で急死した直政に代わり正妻の産んだ嫡子を廃止、庶子の我が子(直政側女の産んだ子)に井伊を継がせたのだという風評で、これは今も絶えない。

駿河益津在中里村の農家の母親の子とした生まれた直政次男直孝は井伊家嫡子直継に代わり彦根35万石藩祖となり家康秀忠家光の3代に仕え大老までになったその人である。

食中毒の悪化により家康は、駿府城の病床に伏した。最後をむかえ側近の本多正純、金地院崇伝、南光坊天海の3人を呼び、遺言を残します。

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黒衣の宰相と呼ばれた家康側近の金地院崇伝(こんちいんすうでん)の『本光国師日記』には、「臨終候はば御躰をば久能へ納。御葬禮をば增上寺にて申付。御位牌をば三川之大樹寺に立。一周忌も過候て以後。日光山に小き堂をたて。勧請し候へ。八州之鎮守に可被爲成との御意候。皆々涙をなかし申候。」とあります。

家康の遺体は、側近の手により、密かに久能山に運ばれ、吉田神道の作法で埋葬されています。

遺体を西に向けて埋葬したのも家康の遺言。
久能山東照宮の話では、「家康公は四角い棺(ひつぎ)に正装姿で座した状態で、西を向いている葬られている」とのことで、故郷の三河を眺めているのか、また豊臣の残党がいる西国や、京の朝廷に睨みをきかせているともいわれています。

翌年、天海僧正により天台系の山王神道に主張に基づいて、後水尾天皇から「東照大権現」の神号が勅許され、日光山へ改葬されたのです。

東照宮という名は、東を照らす(東方薬師瑠璃光)如来が神となって姿を表したというのが本来の意味ですが、東国・関八州を見守るという意味合いが込められた神号でもあるのです。

家康は久能山で西を睨み、扇の要のような関東の要である日光山で関東を守護する権現(天台宗の山王神道で薬師如来の神格化したもの)となる。生涯におけるあらゆる家康の汚点や失敗はこの一点においてすべて正当化、清浄化されたのです。

日光東照宮への改装時に、家康の遺体が移されたのかというのも今日まで続く論争です。日光への改葬は藤原鎌足が死後1年後、摂津から大和に遺体を移した故事に倣ったもの。

久能山には土葬されているので、そもそも遺体を改葬するのが難しいだろうと推測できます。

さらに、久能山東照宮から遺体を日光に改葬したのなら久能山に巨大な廟所を築く必要がなかったのではとの論もあります。・・・・江戸幕府草創期における質の高い建築技術や工芸技術を伝える本殿、石の間、拝殿は、極めて洗練された意匠をもつ権現造社殿である。

江戸幕草創期において、その礎を築いた代表的な遺構のひとつとして貴重であるとともに、権現造社殿が全国的に普及する契機となりわが国の建築史上、深い意義を有している。近年国宝、重要文化財に指定された。

金地院崇伝の『本光国師日記』には、「日光山に小き堂をたて。勧請し候へ」と、「勧請」と記されているので、あくまで神格化した神霊のみを遷した(勧請した)と考えるのが自然ではないかが一般の主張です。

天海僧正も「あれはある奈け連は奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉」(阿部正信『駿國雜志』)という和歌を残しています。
もう少し読みやすくすれば、「あればある なければないに 駿河なる くのなき神の 宮遷しかな」となります。
この「くのなき神の宮うつしかな」の部分に注目で、私を含め地元静岡では、「軀(く=亡骸)のない神様の宮遷し」と読み解かれているのです。

家康が葬られた久能山の神廟も、日光の奥宮も、これまで発掘調査は行なわれておらず、真相はいまだ謎に包まれています。
遺体は日光に移されたと考えるのが自然とする研究者もいて、死後400年以上経っても論争が絶えないのです。

最終話終わり


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