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小泉八雲の生涯ー5

そして日本へ

1869年アメリカへ到着したハーンは、十年程頑張って生活するも彼の精神生活は長年望んでいたものと程遠いものであった。

何故ならば、当時のアメリカは工業化が急速に進み時間に追われた効率主義万能の国家に変わろうとしていた。これは、彼にとってまたもや大きなストレスとなっていた。

シンシナティでの生活苦、失敗した結婚、裏切り等幾多の困難を乗り越えてジャーナリストや物書きとして自立の目途がついた1884年万国産業綿花百年記念博覧会で出会った日本の工芸品の素晴らしさに、彼の日本観は単なる憧れからその根底にある日本及び日本人の精神生活探求へと変貌し、彼自身の失い欠けていたアイデンティティ復活への願望と重なったのである。

それから五年、彼はついに横浜港の大桟橋に降り立った。単に観光ではないその旅の為に哲学書、仏教書を読み、神道の何たるかを勉強した日本行であった。

ハーンはこの当時、汎神論的なものに哲学的要素を加味し考えるようになっていた。人間社会の究極は、完全に自由になった個人が有機的に結合された公正な社会であると、信じていたのである。

当時の日本は開国に際し締結した欧米との不平等条約改正を目指し、国際法の精神を尊重する公平な開かれた国のイメージを、国際社会にアピールする必要があった。そこで高等教育普及に全力を注ぎ、欧米先進国から、大量の教師を雇い入れていた。

この国が欲していた理念への理解や彼の切羽詰まっていた日本での求職へのタイミングも重なり教師として採用されることになった。後、日本婦人と結婚を機に永住を決意し、帰化したのである。

到着した横浜は生糸輸出の集積地として、また巨大な人口と市場を持つ中国への中継地として、重要な機能を持った港町であった。

しかし人力車が行き交うのどかな雰囲気も残すこの街を、精力的に見聞した後、神々の国松江に移った。

彼の日本印象を、要約し斟酌すれば次の様であろう。「この国はまるでお伽の国、妖精を思わせる控え目であるが優しい小さな人々、彼等の喋り声ときたら鳥の囀りの様でありその立ち振る舞いのなんと優雅なことであろうか。

世界の何処よりも綺麗な風景の奥には神の住む森が広がり、鳥居という結界門が数千年来の異界を守っている。この様な国が世界のどこにあろうか。私はすっかり魅了されてしまった。この国の赤ん坊として生まれ変わりこの国の全てを知りたいと思った」。

この様な強い思い込みをしたである。現にアメリカの友人に似たような内容の手紙を送っている。そこに抽出されているものは、彼の「永遠性の直視」である。

永遠性の直視とは「天地の悠久」性を感じることであり、万物の生成生滅から生命全体の流れを直感することである。変わりゆく命の先に日本人は永遠を見つめているという気付きである。

ハーンの生きた今までの世界は時間性を直視する世界であった。ヨーロッパ人はこの時間性の中で生きてきたから物事を切り分け、分析し、抽象化してきた。それが人間の限りない欲望と結びつき、あのロンドンでのおぞましい体験となった気付きである。

人が区切った時間ではなく「無限」を感じ取る感覚を大事にしてこそ真の幸福を生き切れるのである。ヨーロッパ文明の二元対立的な物の観かたではなく、物が分かれる一元の処で感じ得る真の平等と自然との一体感はハーンが子供時代から馴染んだケルトの心でもあった。

時間に追われ、一瞬一瞬自分の目の前に現れる世界が見えないから、日々日常の幸福感を得ることもなく時が過ぎ、気づいた時には実感の伴わない虚しい時間ばかりが過ぎていく。今この時を味わうことが出来ないと、本当の幸せは味わうことは出来ないからである。    

クリムトの画を見てケルト人が残したハルシュタット文明を想う。そして遥かケルトの人々と縄文人に夢を馳せる。

八ヶ岳の森に立ち、音なき気配を感じ、木々の葉擦れに耳を傾ける。それは森の霊気をしる事であり妖精に出会う夢でもある。

ハーンが常々学生に言っていた「夢を大事にしなければならない。人生に於いて最も美しいものの最大のものが、夢なのだから」の意味に繋がるものである。
 

私達の世界は、見える世界と見えない世界の表裏一体、メビウスの輪である。この現実世界は一つの観念に捉われた固定した世界であると同時に眼に見えない霊的な力によって現れる多様な変化に富む世界でもある。

その多様さの中に妖精、妖怪がいても何ら不思議のないことである。この観念はケルト人、日本人に共通してその豊穰な想像力の根底にある観念そのものである。

ハーンにとって日本とケルトの関係は、時間軸を、日本からケルト文明へとなぞってゆくと日本がいつの間にかケルトの裏側になっているという不思議さを示すものだった。

それは表側のケルトが裏側の日本と正反対という意味ではなく両者の連続性、関連性を示すものである。

この様に考えていくと、幻視作家とも言われたハーンの作品、怪談等の再話文学の発想は、ケルトから生まれて来たのであろうかと想像できる。

晩年ハーンは静岡県焼津の海の猛々しさを愛した。この猛々しさは永遠の時を経て彼に呼び掛けてくる過去を生きたものの声であり、百万年後に呼びかけている自身の声でもあったからである。

そして焼津は、メビウスの輪の如く有限でありながら、無限への連続性を暗示する運動体としての生命の在り様を悟らせてくれた場所であった。

彼は日本人として墓石に仏式の戒名を刻まれたが、厳密にはケルト人として死んだのであろう。

今ここにある自分の魂は、過去を生きたあらゆる命の継承であり、未来に於いてもあらゆる命の中に入ってこの太陽を見ているに違いないと随筆「焼津にて」に書き残している。

これは縁起を空として展開する仏教の輪廻転生とは少し違うケルト的輪廻転生論である。この章を終わるにつれケルトの心を端的に表している詩を一遍紹介したい。

私は多くの形をとってきた。
現在の姿を装う前に私は細い剣だった。
大気中の一粒の雨粒だった輝ける星だった。
起源の書の言葉の間にあるひとつの文字だった。
私は鷲のように飛んだ。
海を渡るかご舟だった。
にわか雨の一粒の雨粒だった。
手中の刀だった戦いの盾だった。
ハープの弦だった。

 注:メビウスの輪とは、帯状の長方形の片方の端を180度ひねり他方の端に貼り合わせた形状の図形(曲面)である。有限でありながら連続性があり、それが無限の運動体をイメージさせる。

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憧れの日本へ

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