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徳川家康第二部その二

写真は岡崎城

天正伊賀の乱」と呼ばれる戦いが信長存命中にあった。伊賀には有力者がおらず土豪のような連中が割拠する中世日本を象徴するような土地柄でした。信長は体質的にそのような社会体制とか保守的な伝統を嫌っていましたから次男信雄に伊賀への侵攻を命じます。

伊賀側は地の利を生かして抵抗、信雄は惨敗を喫した。父信長は激怒し、

「信雄よ、そのような無様な様では親子の縁を切る。心しておけ」と叱責した。
二年後信長は丹羽長秀や滝川一益ら有力武将を動員し自ら伊賀への干渉を始めた。兵力は圧倒的だった。伊賀の歴史をつづった「伊乱記」には4万4千余騎が6カ所から伊賀に侵入とある。太田牛一の「信長公記」によると、1週間余で大勢は決まり、各武将に地域ごとに処理を任せる「手前切り」になった。

楽市楽座や比叡山焼き打ちなどで古い中世的なものを破壊してきた信長にとって、小豪族が割拠する土豪的社会体制に他ならない伊賀の破壊は当然のことだった。

織田軍は焦土作戦を展開、神社仏閣を焼き払い、僧俗男女を殺害した。伊乱記によると、伊賀上野城の場所にあった平楽寺も法師ら700人近くが討たれ、玉塔や仏殿が焼かれた。このような天魔の仕業ともいえる非情な行為を行った信長を伊賀の民衆、土豪衆が快く思う訳がない。まして家康は天魔信長の同盟者である。この伊賀越えは無事に済むわけはないと誰もが思った。

家康は密かに茶屋四郎次郎と服部半蔵をよんだ。茶屋は商人でありながら情報に長け戦時平時にかかわらず家康の耳目として働いてきた。もちろん本能寺の変の詳細をいち早くもたらしたのも彼だ。服部半蔵は忍者の頭目であり人心の調略に長けていた。

家康:「半蔵よ。伊賀の忍者の頭目であるお前に頼みたい。儂にとって伊賀や伊勢の山中は全く無知だ。早急に情報収集と道順決定を、それに村長(むらおさ)ら山の有力者との協力要請交渉をしてくれないか。茶屋四郎次郎よ、そなたはその代償としてのお金配りをしてもらいたい頼んだぞ!」

意をくんだ二人は直ちに飛び出し退却路の決定とその経路経路の各所に黄金をばまいた。本多忠勝、井伊直政ら猛将がそろう徳川の四天王。当然家康の安全警護という役割には命を懸ける覚悟は決まっていた。

結果は、大成功。伊勢の浜から領国・三河に向かう小船に乗った時、漁師が差しだした「ヤドカリの塩辛」を口にした家康は「殊の外、風味よし」と、粟麦飯を三杯食したといいます。茶屋四郎次郎はこの時の功績で、家康の専門御用商人として取り立てられ、以後、親交を深めて、徳川家の呉服御用を一手に引き受けることになります。

今回の岡崎城逃避行には次のような問題があった。落ちるもの、落ち武者にとっては、本拠地に逃げ帰ることが最大の目的となります。

このとき、主要な道は明智勢やその同調者、または賞金稼ぎ、野盗に抑えられていますので、本拠地に逃げ帰るためには必然的に人目の少ない山中を通っていくこととなります。

戦国時代には、現在のような正確な地図など存在しない時代に、目印となる建物なしに方向感覚を維持して本拠に向かって進んでいくのは極めて困難です。

どこかもわからない山中に迷い込んでしまえば、ウロウロするだけで一向に本拠地に近づいていかないからです。

迷っている間に力尽きます。

また、山中には、落ち武者にとっての最大の脅威が存在します。その地域に住む農民たちです。

戦国期までの日本では、戦に敗れて逃亡した者は、元々の身分がどれほど高かったとしても、もはや保護に値しない人物であると考えられており、そのような人物を殺して金品を奪っても問題ないと考えるのが常識でした。

落ち武者を狩ると、高価な装備品を手に入れることができる上、狩った武将の首を戦の勝者側に持っていけば高額な恩賞や年貢免除などの褒美を受けられる可能性もあります。

そのため、農民たちにとっては、落ち武者情報は、村総出で取り掛かるべきボーナスイベントだったのです。また、農民たちは、戦のたびに足軽等の乱妨取り(略して乱取り)という略奪行為に遭い続けていましたので、農民の武士に対する恨みは尋常ではありません。

そこで、農村等では、地域内に落ち武者が出たと知らされた場合、半具足・手持ちの武器で武装した村人を集めて戦闘名簿に記録し、落ち武者が通りそうな場所に手分けして待ち伏せするなどの組織的な狩りをするのが通常でした。

その結果、落ち武者は、知らない土地で圧倒的多数の武装農民に待ち伏せされて襲われることとなりますので、いくら武芸を磨いた武士であってもひとたまりもありません。特に、1人で逃げている場合は、四六時中周囲の状況に気を配っておかなければならなくなり、すぐに精神をすり減らしてミスを犯して殺されてしまいます。

この点徳川家康が「茶屋」に大枚の黄金を各所に配らせ一行の安全を図ったことが岡崎城に無事帰りついたことの最大の功績であった。そしてそれは、歴史にIFを作らせなかったことにおいても最大の功績であった。

落ち武者が生きて本拠地に逃げ帰ることは極めて困難なのです。徳川家康が、農民に狩られたりする無残な最期を遂げるくらいなら、冒頭、武士らしく知恩院で腹を切りたいと言った気持ちもわからないではありません。

「伊賀越え」では、船を出した小川孫三に対し、徳川家康は、「このまま駿府に住むがよい」と船上で言ったという。小川孫三は、筆者の住む隣町、駿河藤枝宿に土地を与えられたのでここに移住し、そこを故郷「白子」にちなんで「新白子」と名付けたそうです。この街の白子通りを歩くときこんな昔話にも思い馳せます。

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https://note.com/rokurou0313/n/n80feab441a94




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