見出し画像

『自覚と救済』

宗教の本質は基本的には神です。絶対不変です。対して仏教は絶対性を否定します。

諸行無常は人間にとって死は当然といい、永遠の生を願いながらそれが適わぬこの生の否定は、ニヒリズムに陥らざるを得ません。

仏教ではどこに救済という宗教的な気付きがあるのでしょうか。

人間の精神作用は知、情、意から成立する。知intellect, 感情feeling, 意志will に当たる。

自分を自分として認知できるのも、自分を客観視出来るのもこの働きがあるからこそです。

渋沢栄一は、「『智』『情』『意』の三者が均衡を保ち平等に発達したものが完全な常識だと考える。」といっている。

頭の良い人は兎角『智』にウェイト置き鼻持ちならない。

『情』に流されればわがままだ。

『意』を持って行動すれば衝突する。

常識とは、言葉では語れないが絶対的なものではなく一人一人の智、情、意のバランスであるとすればこのバランスされたもの、常識は意識の出立点と呼んだらいいのだろう。

元々「知情意」は、意識の分離である。人として不安や対立もなく心安らかな日々を送ろうとするならばこの意識の出立点である知情意の統一状態、分離以前の調和に心配る必要があるのだろう。

分離感は、物事をバラバラに認識し、複雑化しようとします。

意識の進化とは、自我(知情意)がバラバラに複雑化させた物事を一つにまとめていくことを意味します。

世界的に活躍した禅思想家であり、また哲学者、西田幾多郎の高弟でもある久松真一氏は、自らの禅の見性体験と宗教的生活をもとに独自の思想を築いた。

この世の実在を深く自覚し、人間がその実在に目覚めることで「救われる」ことを目指した。

具体的には我々の自己の「自己矛盾」の徹底的な「自覚」からの自己の「救済」もまた考えられるとした。

「自己矛盾」の徹底的な自覚とは、「知的には絶対矛盾、意志的には絶対ディレンマ、感情的には絶対苦悶」と言われる。

「知・情・意が我々の現存在であるということ」にならなければいけないという全体での自覚、しかもそれが、「はっきりと主体的に体認されて、二律背反、即ちそれは自覚されるものと自覚するものとがいささかも分離していない極めて主体的な自覚でなければならない。

このような知情意の全体が一体となった自覚こそが人の救済であり安心というのです。

高名な哲学者西田幾多郎の高弟の一人でありFAS禅の実践家、京大の心茶会指導者としての二面を持つ彼の思想の断片へ迫ってみよう。

禅修業には「往還」と呼ばれる「無・・悟り」へと至る往相とそこから現実へと返る還相がある。

久松思想の往相は『東洋的無』から『絶対主体道』の道筋であり、そして、現実世界への還相が『創造』へという道筋で示される。

久松氏の場合、この還相である「創造」が‥FAS禅が目指すポストモダンへの提言であり、茶道への道・・強調されるのである。

久松氏の悟りへの往相である「東洋的無」の自覚とは何なのであろうか。

京都学派において西田哲学の伝統的な「無」の概念を、久松氏は西洋的な「有」の立場との対比で考える。

西洋では形而上的なものは「現実に有るものの立場の上での現実を超えたもの」とし、個々の存在は「現実に有るもの」と規定される。

この形而上的なものは「有」の立場であるため、西洋が「有」の世界であるとされる。

この有の世界に対しての立場の転換を行うことで姿を現すのが東洋的に形而上的なるもの=「東洋的無」とされる。

久松氏は東洋的無の特徴を次のように示す。まず、東洋的無には「心性」がある。彼は東洋的無を「虚空」=空間的ななんの働きのないものではなく、生きた心=「自覚」を持ったものであるとする。

次に東洋的無は「体験」的であるとする。有の世界では個々の存在として通常の事物は概念的に把握できる。一方、東洋的無からの存在は「言詮を超えた冷暖自知」、概念ではなく体験的に捉えられる ものとしたのだ。

そして東洋的無は主体性があるとした。
東洋的無は「有るもの自身を否定し、超えたる形而上的なるものであり主体として現存する。

有という個々の存在として限定された個物の世界を否定した、個々の
存在を超える無限定こそが東洋的無なのである。

松岡正剛氏は久松氏の「東洋無」は7つの無から成り立っているという。無法・無雑・無位・無心・無底・無礙・無動である。
 
無法は「不均斉」への流れをともなう。無雑は「簡素」への転出である。そのためには自身の粗相を詫びる気持ちがなければならない。

侘び茶につながる東洋無である。無位は立場にこだわらない意識のことをいう。たとえば「枯れる」という心境をいう。けれども枯れるには、他者がその枯れから潤いを感じなければならない。

無心はわかりやすいだろうが、自然(じねん)に近い。エピクロスならアタラクシアというところだ。

自然法爾(じねんほうに)といえば、大乗仏教のひとつの根本思想になる。無底は禅がよくつかう用語だが、「無一物中無尽蔵」という言葉に暗示されているように、底抜けをいう。

自己の底を抜き、茶碗の底を感じなくなることが無底なのである。

能ではこれを「幽玄」にあてはめる。だから無底のボトルにはなんでも入る。

無礙は華厳にいう「融通無礙」のことで、互いに動きあい、反映しあう観点をもつことをいう。コレスポンダンスであるのだが、そのコレポンのなかに自分も入ってしまっている。


7つ目の無の無動は動かないというのではなくて、語黙動静にかかわらない凛然たる感覚である。座禅の姿といってもいいし、雪舟の『秋冬山水図』といったってかまわない。

ざっとこんなところが東洋無の特色である。最初の無法が形としては不均斉を意味しているように、ここにはいずれも「形」と「無形」の出入りがある。無法は、だから無礙なのだ。無礙はまた無雑なのである。
 

パウル・クレーだってこういうことは考えたけれど、それを考えている主体ははっきりと実在していた。その根本に「無相の自己」はなかった。久松は禅に学び、西田に学んで、この「形」と「無形」を往復し、そこから西洋のニヒリズムに堕さない「無」を呼吸して、昭和55年に91歳で示寂した。

久松氏は、有の世界では形而上的なもの(神)は私たちを超越する別個の存在として捉えられるという。有の世界では形而上的なものは「客体」でありこの「客体としての形而上学的なもの」に対して、「主体としての形而上学的なもの」が東洋的無なのだ。

東洋的無は「有るもの自身を否定し、超えたる形而上的なるもの」であり「主体として存在する」ものとした。有という個々の存在として限定された個物の世界を否定し、個々の存在を超える無限定こそが東洋的無なのである。
久松氏の言う東洋的無の「心性」が私たち個々の存在と東洋的無の接点である。私たちは「かかる心を摂めて、虚空の如き本来の真心に還帰することによって始めて仏になれる。・・真の安心であり救済されるのである」、つまり、東洋的無になれるのだ。

久松氏が東洋的無の特徴として示した体験的な「自覚・・悟り」は無限定的な東洋的無が把握されることにより。この自覚が仏教でいう往相」なのである。

久松氏は、有の世界では形而上的なもの(神)は私たちを超越する別個の存在として捉える。有の世界では形而上的なものは「客体」である。

この「客体としての形而上学的なもの」に対して、「主体としての形而上学的なもの」が東洋的無なのだ。

 この「主体」は自力・・・他力における「自力」と同義であるり有の世界における宗教は他力の宗教(キリスト教や浄土真宗)であり、それらは客体としての神や仏によって人々を不安=絶対死から救う。

それに対し「絶対死の中から甦った新たな自分の力によって、その絶望を脱去する」人間のあり方を提示し、そこに自力の宗教である臨済禅を位置づけるのだ。

この絶対死から甦った自己は「私というものがもう生まれるということも無ければ死ぬということも無い」こと(無生死)を自覚する。「無生死」の自覚は東洋的無の自覚である。限定なき東洋的無は生死という限定さえもないのである。

自己が東洋的無であると自覚することは、「私は死なない」ということを自覚するということになる。東洋的無には心性がある。この心性を「仏」となずければ禅の仏であり、「主体的主体はすなわち絶対主体」となる。つまり、人々は自分の心性を頼りに自力で東洋的無を自覚し「覚者」=「仏」になれる のだ。

人々が自己は限定されない無であると自覚するとき、絶対主体=仏となる悟りを開く覚者になれるのだ。

京大の心茶会を主催した久松氏は「茶道の未だ形にあらわざる以前の、茶の精神とか茶の生きた本質とかいうものは、茶の一切の現象にあらわれてゆく能表現的な主体「創造的主体」であるという。

絶対無の自覚こそが「茶道の玄旨・・本質」なのである。

「茶道は和敬清寂の法を修することを得る」
 一般的に「和敬清寂」は「茶道の倫理法則とかモラル」のことを指すが客と亭主がよく和合するとか、互いに敬うとか、心を清く持つとか、心を落ち着けるとかである。

事物人境という私たちの日常経験の世界には、その根源には絶対無がある。この理解の上で「和敬清寂」は仏教的ニュアンスの強い「寂」が四諦の根源の一諦としてあり、そのさらなる根源に絶対無が位置づけられのだ。

「四諦を超えた、四諦の根源としての一諦は寂という語で言い詮わされる場合」もあり、「和敬静寂」の四諦は「この根源的な高次の寂がその形をとって現われた法則」なのである。

創造主体である絶対無の「表現」として和敬静寂があり、茶道の稽古は「仏
法を習うということにも、また自己を習うということにもなる」のである 。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?