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述語論理

「私は人である」という表現についてみてみよう。主語の「私」は特殊で、それは述語の「人」という一般に包摂されるという関係を表している。

現代の表現形式は、この包摂関係を体系的に展開してみせているものだ。

主語となって述語とならない究極のものを「個物」とし、述語となって主語とならない究極のものを「カテゴリー」と位置づけられる。

世界のすべての個物や、また特殊的なものは、すべていずれかのカテゴリーに包摂されるというのがアリストテレスの考えなのだそうだ。
だから、アリストテレスにおいては、認識論と存在論および論理学が接続していたということができるとは然る哲学者の弁だ。

西田幾多郎は、判断の形式から出発し、従来は主語中心であったものを、逆方向で述語中心に考えるべきで あるとして「述語の論理」=「場所の論理」を提唱した。

私は若い時から禅に関心を持ちその哲学性、宗教的内容に惹かれ独学してきた。
ですから西田哲学に親近感を抱いてきたが彼の日本語表現には悩まされてきた。だからと言って誰かに解説してもらい簡単に理解するものでもない。そんなことから彼の文章をどのようにしたら理解できるのかをNoteに取り上げ考えてみた。

系統的な学びの哲学徒であれば問題とはならないだろうが西田のいう主語と述語、一般と特殊という言語的理解については冒頭に述べた。

西田の究極的な述語面についての表現はアリストテレスがそれをカテゴリーとしたものを、その先にさらに踏み込んだものという。

カテゴリーというのは、複数形だからそれは究極のものとはいえない。

究極的といえるのは、ただ一つしかないものに限る。では、述語となって主語とならない究極的な述語面とは何か、西田はそれを、自分がいうところの「場所」だとする。

先ず、この場所の理解が西田哲学へのつまずきだ。

場所とは、人間の意識現象とかかわりのある概念である。それがなぜ、論理学上のある種のカテゴリーとも言うべき「究極の述語」とか「究極の一般者」とかいうことになるのか、ここに「場所」を理解する上での最初の困難があるといわれる。

西田は「究極的な述語」とは「場所」でなければならないという。主観が客観を包むということを、一般が特殊を包むというふうに判断した。

たとえば人間というものを知ろうとすれば、私は人間でないものや人間に似たものなどを次々認知っていく中で、この人間という特殊を生物とか霊長類といった一般概念のうちに措くようにするから人間を人間として識別出来る。
これは一般によって特殊を包む階層のようなものがあって、例えば動物、哺乳類、霊長類さらにその上に人という概念があるのだ。この階層の最上の人が一般概念としてカテゴリーとして規定されている。

では、そのように特殊と一般に包摂関係があると見えるのはなぜなのか。「特殊(客観)は一般(主観)に含まれる」というふうに決めたからである。

「人は私である」と言うより、「私は人である」と言ったほうが理解しやすくなると感じるからである。
そうしたカテゴリー関係が成立するのは、自分がその用語を発するときに区分けしたからである。

 生物は原生生物や爬虫類、哺乳類、霊長類と区別されながら人としての私にたどり着くのだ。最初から生物としての自分があるということはない。
「主語=客観=特殊」は「述語=主観=一般」に包まれていくようになっているのではないか。「述語は主語を包摂する」という述語論理となるのだろう。

西田はそこにとどまらず、そうした包摂関係が生じる以前を考えた。いったい何がどこで主語と述語に分かれていくのか。どこかに分かれ道があるのか。そこを考えた。西田はそこで、「主語となって述語にならないもの」や「述語になって主語にならないもの」があるだろうと考えた。西田はそのことを詳しくは説明しなかったのだが、ここには文法や語法を含む言語そのものの本質からの推理がはたらいていたというのだ。
 
意識を形成するのが主に主語論理であるとす れば、無意識を形成しているのは主に述語論理なのであるとする。「主語論理」と「述語論理」は主に判断の形式から出発して 導き出されたものであるが、それを広く見るならば、「主語論理」 は「主体の論理」に含まれ、「述語論理」は「場所の論理」に含 まれる。
意識のようなものはつねに述語的で、主語にはなりにくいと考えたのである。たとえば「自分」とか「われわれ」とか、また「エス」や「イド」や「絶対意志」などというふうに意識を統括しているもの、ないしは意識を動かしていそうなものを主語にもってこようとすると、意識は意識でなくなっていく。かえってたくさんの述語を必要としてしまう。
 述語性にこそ意識が見えてくる、発芽してくると考えたほうがいいと西田は思った。
この述語的な一般のほうにこそ無限の入れ物のような作用をもつ「場所」があって、それを「見る」ことによってこそ直観が動くのではないかと思いその場所は「無の場所」のようなものではないかと結論づけたのだ。

「無の場所」というのは、そこへくるとカテゴリー関係と自分との関係が溶けあっていくところであったのだ。

 

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