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忠臣蔵を考察 その1

関ヶ原から百年、天下分け目の戦いを経て徳川政権は薄氷を踏む想いで均衡と安定を成し遂げた。徳川幕府の創生は、裏切りの連続と血の抗争の果てであり、それは現代日本で繰り広げられるような政治家たちの政権取りの様相に似ていなくもない。そのような抗争の緊迫感は反動として近世の到来を断絶させる如くの封建制度への移行の時代でもあった。
家康が死に秀忠家光親子の死んだ一代後の元禄バブルの徳川政権が、やがて長期低落へと向かう節目の時期に、5代将軍・綱吉のお膝元、江戸で事件”は起こった。
播州赤穂の浅野内匠頭の刃傷から吉良邸討ち入りへの顛末は、平和ボケに浸りかけた日本中に衝撃を与え、いちはやく浄瑠璃となり、歌舞伎となった。殊に階級差別の底辺にいる江戸庶民の喝采を浴び、その忠孝は全国に広まった。

私は高校生のころ3人の息子を太平洋戦争で亡くした母方の祖父のお供をして靖国に訪れたことがあった。
その帰り品川の泉岳寺により赤穂浪士の墓前に手向けの線香を点した。
物語として聞いただけの赤穂の浪人たち事件が本当にあったとの実感は歴史に立ち会うとはこの様なことなのかと思った記憶がある。

今も昔も武士の鑑と誉めそやされる赤穂浪人の物語。単なる私怨のテロ集団が起こした事件なのか否かを、改めて歴史家を気取る今日この頃の私がこの事件を歴史に透かせば何かが見えてくるのだろうかと思いNoteに取り上げてみた。
赤穂事件の史実と芝居『仮手本忠臣蔵』との虚構を自在に行き来しながら考証してみよう。
その2へhttps://editor.note.com/notes/n709a58769e29/edit/


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