琳派と酒井抱一
琳派と言われる絵画グループについて前節書いてみたがそこに酒井抱一がないことに一つの反省があった。
死の間際まで光琳を研究し続けた江戸の絵師酒井抱一。
後に琳派と言われた絵師たちの出自が町衆であったのはと違い大名家が生家であったのが異色である。
姫路藩主酒井家に生まれた抱一はそれまで京都に根ざしていた琳派を江戸の地に広めました。
光琳は生前の一時期、酒井家に仕えていたことがあり、その作品が多く残っていたことも幸いしたのでしょう。もちろん酒井抱一も「風神雷神図」を模写しています。
1570年頃生まれて1640年頃没した宗達、1658年生まれ1716年没の光琳、1761年生まれ1829年没の抱一と生きた時代が重なっていません。
抱一は宗達、光琳が京都で築いた琳派様式に傾倒し、江戸後期らしい新たな好みや洗練度を加え「江戸琳派」と呼ばれる新様式を確立していきます。
風流で典雅な花鳥画を得意としながらも、風俗画や仏画、吉祥画や俳画などさまざまな主題や作風に対応しうる柔軟性を持ち、多くの文化人との関わりながら、独自の世界を作り上げました。
抱一の没後も江戸琳派は実に一世紀近く命脈を保ち、特に高弟の鈴木其一(1796-1858)や、池田孤邨(1801-1866)らの幕末期の活躍は、近年大きな注目を浴びています。
私たちが今日何気なしに言っている様式美琳派を定義したのがほかならぬ酒井抱一です。
彼は私淑する尾形光琳を詳細に研究し、俵屋宗達から始まる流派を尾形流(琳派)と捉えるという後世の我々が定義づける琳派に決定的な指針を与えました。
また、多くの尾形光琳の研究書物を著し、それが欧州に渡り、その時代の「アール・ヌーボー」「アール・デコ」に少なからず影響を与えたのも彼の功績の一つです。
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