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ドナルド・キーン


日本と日本文学を愛し、それを海外に広めたドナルド・キーン(敬称略)が亡くなってしばらく経ちました。享年96歳の長寿であった。

「第二次大戦後、日本文学が国際的に評価されていく時期に、最も重要な存在だったのが、ドナルド・キーンであった。

キーンが生まれたのは、1922年の米国ニューヨーク。コロンビア大学在学中に『源氏物語』に出合ったのは単なる偶然ではなかっただろう。
当時世界情勢を見れば、ヨーロッパはナチス・ドイツが台頭し、フランスは占領された。
ロンドンの夜間空爆が始まり暗い時代だった。

「争いのない、貴族たちがくり広げる、美だけの源氏の世界。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍が各地を占領していたころで、どうすれば武器を持たずに争いをやめさせることができるのか、私はいつも考えていたので、なおさら源氏物語にひかれました」
キーンは97年の朝日新聞の取材に、こう語っています。

 キーンにとって運命の書というべき『源氏物語』を読みたい一心であった。このため、海軍日本語学校に入学。戦時中は通訳士官として日本語文書の解読に従事した。
彼が普通の米国人と違っていたのは、日米が激しく戦った、ガダルカナル島で押収された兵士の日記を真剣に読んだことだ。
私もガ島で死んだ叔父がいる。当然ながら死に至った真相や遺骨も帰還しない。故郷の墓に葬られた骨壺にはガ島の砂があったという。

 そんな日記の中には「戦争が終わったら、家族の元へと届けてほしい」と、最後のページに英語で書かれたものもあった。願いをかなえようと隠していた日記が軍当局に押収されたこともあったという。

彼の日本語体験として重要なことは、日記を通じて、戦地で究極の危機に瀕した一般市民の痛切な声を聴きとったことだ。
このことの哀悼と悲しみが彼の日本語学習の原点であったからこそ彼の生涯を決定した源氏物語の「もののあわれの世界」を真に理解し世界に源氏を紹介できたのだ。この功績により外国籍でありながら文化勲章を授与されたのだった。

日本文化の精髄としての『源氏物語』と、私の叔父を含めた一般の人たちが死に直面しながら書き綴った生々しい声。
その両極の言葉のあいだで日本文学を捉えたキーンだからこそ、川端康成のようなただただ美しい日本語ではない、三島由紀夫大江健三郎らの日本人の実存を問うような戦後日本文学も読むことができたのだと識者はいう。

キーンはその経歴が示すように「頭が良くて、考えが明瞭。ユーモアのセンスがあり、ウィットに富んだ会話ができる人であり日本人のインテリにはない面白い人」だったという世評を残す。

年齢差を超えて親交のあった作家の平野さんの心に残るのは、キーンよる作家の寸評だという。
キーンが天才といった三島由紀夫について、「大抵の日本人は自分が話している英語が相手に通じないと、だんだん声が小さくなる。けれど三島は反対で、話が通じないほど、どんどん声が大きくなる珍しい日本人だった」といった具合に三島のある面を的確にとらえている。
然し、三島は自決の直前、キーンに書簡を送っているが自決に至った彼の心の軌跡は死ぬまで(キーンは)分からなかったという。

キーンまた、『明治天皇』など評伝も多く手がているが平野氏は、「評伝では『石川啄木』が素晴らしいという。
非常にフェアに書かれていると同時に、人間的に破綻しながらも才能がある啄木という人間の魅力が多面的に描かれているというのだ。
『私と20世紀のクロニクル』は、キーン自身の人生とともに、谷崎潤一郎や川端康成など作家たちとの交流もよくわかるお勧めの本だという。

 東日本大震災が起こると、「日本人とともに生きたい」と2012年に日本国籍を取得し、日本に永住すると表明した。13年には文楽三味線の奏者・越後角太夫さんを養子に迎えている。

 平野氏は言う。「キーンさんが存在としていなくなったのは寂しいし、とても残念です。けれどキーンさんはたくさんの本を書き、次の世代を担う素晴らしい研究者も育てました。著作に触れながらその功績を偲びたいと思います」と。


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