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名前と存在

禅の公案にこんな話がある。ある禅寺の話。師僧が弟子を呼んだという。その時弟子は、「はい」と答えたが、すかさず師僧は、「はい、と答えるお前は誰か?」と質問したという。弟子はその答えに15年かかったという。

また、中国禅宗史上著名な香厳和尚が人にこう言ったという。「人が樹に登るとする。しかも口で枝をくわえ、両手を枝から離し、両足も枝から外すとしよう。

その時、樹の下に人がいて、「禅とはいったい何であるか」と問いかけてきたとする。答えなければ問うた人に申し訳がたたない。そうかといって答えようものなら、樹から落ちていっぺんにあの世行きだ。
さあ、そういう事態に直面した時、いったいどう対応すべきか?

首山和尚が竹箆(しっぺい)・・修行者のなかの第一座首座が、住持の命によって禅問答を取り交わす法戦式に用いられる道具・・を取り出して大衆に示して言われた、「お前たちよ、もしこれを竹箆と呼ぶならば名称に囚われすぎる。竹箆と呼ばなければ名称の無視になる。さあ、お前たちはこれを何と呼ぶか言ってみよ。」

これら二つの例では、禅問答を解釈することによってパラドックスに陥るのではなく、すでに問答(問い)自体のうちにパラドックスがそのままの形で明示されている。つまり、考え得る二つの行為のうち、どちらの行為も実現不可能であるために行為者が決定不可能な状況に陥る。

直接的なパラドックスの解法が問われていて、そして理性的、論理的に考えていく限りにおいて、こうしたパラドックスは解決不可能な種類のものであるために、禅の学人は論理や言葉を超えたもの、すなわち悟りへと自ら向かわざるを得なくなるのである。

おそらくここに、パラドックスを含む禅問答を公案として使用する意味が存在するのだろう。

過ってセイロンと呼ばれたインドの対岸にある島国に伝えられた経典に「ミリンダ王経」がある。そこにはこんな問答が載せられている。

ミリンダ王はナーガセーナ長老とあいさつをかわす。王はナーガセーナ長老に名を尋ねる。ナーガセーナ長老は、自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しないと言い出す。

ミリンダ王は驚き、実体・人格を認めないのだとしたら、「出家者達に衣食住・物品を寄進しているその当事者達は一体何者なのか、それを提供されて修行している当事者達は一体何者なのか、破戒・罪を行う当事者達は一体何者なのか」「善も、不善も、果も、無くなってしまう」
「ナーガセーナ師を殺した者にも殺人罪は無く、また、ナーガセーナ師に教師も無く、聖職叙任も成り立たなくなってしまう」と批判する。

更に、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ね、「髪」「爪」「歯」「皮膚」「肉」「筋」「骨」「骨髄」「腎臓」「心臓」「肝臓」「肋膜」「脾臓」「肺臓」「大腸」「小腸」「糞便」「胆汁」「粘液」「膿汁」「血液」「汗」「脂肪」「涙」「漿液」「唾液」「鼻汁」「小便」「脳髄」、「様態」「感受」「知覚」「表象」「認識」、それらの「総体」、それら「以
外」、一体どれが「ナーガセーナ」なのか問うも、ことごとく「ナーガセーナ」ではないと否定されてしまう。

ナーガセーナ長老は、ミリンダ王がここに来るのに、「徒歩」で来たか、「車」(牛車/馬車)で来たか尋ねる。「車」で来たと答えるミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。

「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。

先程の意趣返しのように、ミリンダ王は嘘言を吐いているとからかうナーガセーナ長老に対し、ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。それを受けて、ナーガセーナ長老は、先程の「ナーガセーナ」も同様であると述る。ミリンダ王は感嘆する。

人間は、いろいろなものに名をつけ、名前即ち言葉で全てを表現できるということを確信するが、付ける名前や言葉で説明すればするほど抽象化に陥り、本質からは遠ざかるのです。

物ごとの深い意味付けは一見正しさを含んでいるように見えるだけで勘違いであり、間違いということが事実に近いのだ。
そうと言えるということと、そのことが事実であるということに関係性はないのだ。

名前に対応する実体の存在を否定することを述べてきたが、世の中の人は、我とよばれる実体にとらわれている。けれども、そういうものがあるわけではない。要は客観的に見えるわれわれの存在の一部分に捉われることをなくさせる。つまり我執をなくさせるというのがこの話の趣旨なのです。

家は色々と名ずけられた材料で建てられているが何かの原因で無くなれば元の空き地になるだけだ。私も亡くなれば何もない無に帰るばかりです。ここに仏教でいわれる無我説の根拠があります。



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