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徳川家康 第二部 その五

青い目のブレーン(写真は三浦按針ことウイリアム・アダムス)

大御所時代家康の新知識を支えたイギリス人がいた。名前はウィリアム・アダムズ。

家康はアダムズと出会いその新知識が大いに飛躍したのだ、日本が南蛮貿易として交流していたポルトガル、スペインのカトリック教国はその侵略性を豊臣秀吉に嫌われ警戒されていた。秀吉はキリスト教布教禁止令を出すまでになった。

イギリス、オランダなどのプロテスタント教国は政治軍事の目的のない純貿易が来日の目的であると徳川幕府はオランダと国交を結んだ。日本とオランダとの国交は慶長14年(1609)のオランダ国王使節の来日に始まる。

このきっかけを作ったのはアダムズだ。また日本とイギリス両国の橋渡しをしたのも彼であり、最初のオランダやイギリス外交にアダムズが果たした役割は大きかった。

彼の出生記録がロンドンから東に約50キロ離れたケント州ジリンガムのマリー・マグダリーン教区教会に残されている。

アダムズは1564年9月24日この町で生まれた。シェイクスピアと同じ年の誕生である。

16世紀のイギリスは、女帝エリザベスが即位し(1558年)、イギリスの産業や貿易が盛んになり、建国史上最も輝いたエリザベス朝時代である。

イギリスが大英帝国へと進む栄光へのスタートの時代であった。エリザベス女王は、オランダの独立を支援しスペインに反発を深めたため、これに対抗したスペインは1588年無敵艦隊をイギリスに進撃させた。

イギリスがこの無敵艦隊を撃破したことによって、イギリスやオランダがスペインの制海権を奪い世界進出に躍り出たのだ。

アダムズの生まれたこの時代はこのような大航海時代がさらに羽ばたき出した時代だった。イギリスは世界的規模で動き出し、スペインとポルトガルに代わろうとしていた。

リーフデ号というイギリス船が日本近海で嵐に会い、長く漂流したのち豊後の臼杵に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵藩の藩主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだものの、歩行可能な者はパイロット、アダムスも含め、わすか6名しか残っていなかった。

見慣れぬリーフデ号の漂着は、たちまち噂となって広がり家康の耳にも届くことになる。家康は、早速アダムズを大坂に呼び寄せ、航海の様子や来日の目的などをいろいろ聞き質した。漂着から9日目、病気の船長に代わりアダムスは大坂城へと出向き家康と会見した。家康に持っていた世界の海図を見せ辿った航路を示した。海賊ゆえ処刑すべきと吹き込まれていた家康だったが臆せず説明するアダムスを気に入り全員を釈放したのだった。


前後3回アダムズを召喚すると、アダムズの話に興味を示し、家康は彼を解放し、リーフデ号を堺に呼び寄せ関東にまで回航させた。このとき家康は意外なところに注目した。リーフデ号の積み荷である。500挺の火縄銃、5,000発の砲弾、300発の連鎖弾、それに5,000ポンドの火薬などみな家康の目に止まった。どれも世界最新鋭の軍備を備えていたことを家康は目ざとく見つけ出していた。
この時期は日本を二分して争う関ヶ原の合戦の前夜だけに、家康は関ヶ原の合戦で、リーフデ号の先端兵器を活用したいという欲があったのだろう。

アダムズとの会見で家康は、彼の人格と能力を見抜いた。彼がそれまでのスペイン人やポルトガル人とは異なる人種であることや、オランダやイギリスとの外交や貿易の重要性もすでに視野に入れアダムズと接した。
家康の目的はアダムズを徳川政権の枠組みに取り入れ、外交・貿易・技術などの顧問として厚遇し彼のノウハウを生かすことにあった。

当時のヨーロッパのパイロット(船先案内人)と言えば、相当の能力の持ったインテリであり技術者であった。

家康はアダムスに質問を発した。

「そなたの国エゲレスとはどんな国なのだ。どのようにして我が国にたどり着いたのか話してはくれまいか」

「はい。お答えします。私はエゲレス南東部のケント州ジリンガムという町に生まれ、エゲレスは日本と同じ島国ですがとても文化や産業が発展しています。海運も盛んで船員は世界中の国へ新しい航路を開拓しながら航海をしています。

私は12歳でロンドンのテムズ川北岸にある船大工に弟子入りしました。しかし造船術よりも航海術に興味を持った私は、海軍に入り直し、航海術を学びながら本当の海戦に参加したこともありました。私の国はオランダと友好国です。商売も両国は協力しあっています。

今回の極東への航海もオランダから5隻の艦隊を組んでロッテルダムという大きな港から出港しました。アメリカ大陸沖のマゼラン海峡は季節風が強くここでは多くの船が沈没しています。ここを乗り切ったとしてもアメリカ大陸沿岸には獰猛な未開人が多くいて今回この航海に同行した弟もここで殺されました」

「それは気の毒な。ではどうしてこのような困難な旅をしようとするのか」

「お答えします。まずは航海では次々と不幸なことがおこりました。艦隊のうち一隻はポルトガルに、もう一隻はスペインに拿捕されてしまいました。両国はエゲレスの敵です。3隻めははぐれてしまいロッテルダムに引き返してしまいました。

残った2隻で太平洋を横断する途中、残り一隻の僚船は沈没してしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはこのリーフデ号ただ1隻となったのです。その上、食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、土民の襲撃に晒されたために次々と船員を失い、出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減ったのです」

「ひどい目にあったな!そんな目にあってもお前たちを奮い立たせる利益を生む交易品は何なのか」

「はい私たちの航海はアフリカ沖から大西洋マゼラン海峡から太平洋そしてフィリピン、日本中國インドを回り本国へと世界一周の旅となります。メキシコや日本で武器弾薬を売りその代金、銀で中国の生糸を仕入れます。中国の生糸は絹織物にされヨーロッパの王侯貴族に高値で売れます。またインド、東南アジアでのお茶、香辛料もエゲレスでは貴重品で言い値で取引されるのです。ですから一回の航海で命を懸けてもそれを上回る利益が保証されるのです」

1603年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が江戸幕府を開くと、ウィリアム・アダムズを外交担当として江戸城に呼び出した。

アダムズは豊富な知識を生かし、幕府の外交交渉の通訳や助言をした。また西洋学問に興味の深い家康に対し、数学や地理、天文学など、自分が航海術を通して身に付けた様々な知識を伝えた。

家康はアダムズを寵愛した。そのためアダムズが帰国を願いを出しても決して許さず、自分の元を離れないという証文まで書かせたのである。


そのうちアダムズは日本でお雪と結婚。二人の子供を授かる。ちょうどその頃、アダムズは家康から難題を申し付けられる。それは大型の西洋式帆船を造れというものだった。造船の技術があるとは言え、一から日本で造るのは至難の技。

アダムズは断るも何度も家康に頼まれ、引き受けることに。日本での西洋船造りに着手したアダムズは伊豆の伊東に注目する。ここは和船の造船が盛んだった。さらに伊豆の山々から良質の木材を入手できた。

アダムズは優秀な船大工を引き連れ、砂浜に大きな穴を掘り、簡易の造船ドックを造る。そしてそこで120トンの西洋式大型帆船を造り上げた。

家康に召喚されたアダムズは破格の待遇を受けていた。彼が本国に送った書簡の中で次のように述べている。

「私は現在皇帝(駿府の家康のこと)のために奉仕し、日々の勤めを果たしているので、彼は私に知行を賜った。それはちょうど英国の大侯にも比すべき、八十人から九十人ほどの農民が私の奴隷か従僕のように隷属しているのです。

このような支配的地位は、この国ではこれまで外国人に対して与えられたことがなかった。神は私の大きな災厄の後にこれを与えて下さったのである」(「日本に最初に来たイギリス人」より)。


オランダ国王使節が江戸に参府した際、現在の横須賀市逸見町にあるの按針屋敷に宿泊した。

そのときの記録にも、

「彼(アダムズ)は、この国の領主や王侯たちも、とうてい受けることがないほどの厚遇を皇帝から受けている。彼はすこぶる元気で、また経験に富み、きわめて実直な男だからである。彼はしばしば皇帝(駿府の家康)と言葉を交えるし、いつでもその前に近づくことができる。これほど寵遇をうけている人はごく少ない」と一様にびっくりした。

アダムズを顧問としたことによって、家康はそれまで以上に遠い海の彼方の国々へと視野を拡大していく。スペインが誇る無敵艦隊がイギリスに敗れたことで世界の権力地図が大きく塗り替えられたことや、イギリスやオランダが新たに東洋を目指して進出していること、それにキリスト教にもカトリックだけでなくプロテスタントの存在があることなども学んだ。

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こうしてアダムスは正式に家康膝下の旗本となり領地と知行をたわまった。日本名三浦按針とは知行地の三浦半島からであり按針とは彼の本業水先案内人の意味であった。

エゲレス帰国もままならない中で彼は日本人となる覚悟で日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった「馬込勘解由の娘」を嫁にもらう決心をした。家康の関東入部に従って江戸に入り、伝馬役に就き、日本橋大伝馬町を本拠に伝馬と名主の役を世襲した人物だ。代々勘解由を名のり、幕末まで続いた家柄だ。
馬込という苗字と、勘解由という武士のような通称を代々許されたのですから、相当に高い身分で家康に近い人物であった。

イギリス人でありながら、知行250石の旗本に取り立てられ、幕府に連なる有力者の娘を嫁にしたということで、ウィリアム・アダムスが家康からいかに目を掛けられていたかが分かる。

ウイリアムアダムスこと三浦按針には子供が二人いた。一人は青い目の侍の跡を継いだ男子ジョセム・アダムス、妹にスザンナがいる。また、父の故郷イングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいる。

ジョセフは元和6年(1620年)5月16日、父が死去すると家督と所領を相続し、名乗りを継いで二代目三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、元和10年(1624年)と寛永12年(1635年)には船員としてコーチシナ(交趾支那)へと航海している。

その頃には、海外貿易に積極的な家康から消極的な秀忠の治世に代わっており、次代の徳川家光に至って徐々に朱印船貿易に対する制限が強化される。しかし、ジョセフは最後まで朱印状、奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9年(1632年)まで貿易を行っていた記録が残り、また、同13年(1636年)付けの棟礼が現存すると言われ、鎖国直前までは活動が確認できる。

夫人お雪はオランダ商館長にも会ったりと歴史にもその名が散見されるが詳細は不明だ。名前のように色の白いきれいな夫人だといわれ生涯仲睦まじい人生を送ったといわれる。

徳川家康 第二部その六最終話へ

https://note.com/rokurou0313/n/n699c38519a3b



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