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偉大な学者中村元1

 戦後の仏教学やある種の思想界をリードし、一般の人々にもわかりやすくその周辺を解き明かした中村元氏が亡くなって久しい。彼は多くの解説書、翻訳、辞典などを刊行したが、それらの書籍は今も読み継がれている。それは何故だろうか。私ごときが解説する立場でもないが、仏教やその周辺に関心を持つものとして彼を避けては通れないだろう。
いくつかの理由が挙げられるだろうが、一つには、戦後早い段階で実際にインドに赴き、その文化に触れた実体験に基づく考察が挙げられる。著者自身の感じたリアルな体験を力強く伝えることで、読者をスームーズに現在からブッダ在世当時へとタイムスリップさせ、ブッダの姿を生き生きと想像させたのである。
 ゴータマ・ブッダの伝記を書くとなると、昔から伝わっている仏伝の漢訳にもとづいて書かれていたのがほとんど唯一の資料でした。
最近では、インド学一般の研究が進歩して、外からの文献で確かめることができます。それから考古学的な研究、発掘もだんだん行なわれています。
中村元はこのように時代の状況を精査し、従来の偏狭なアカデミズムにとらわれることなく古今東西の思想哲学の融合の中から普遍的なものを見出そうとしたその研究姿勢を高く評価されているのだ。

中村元はじめの肩書は、「仏教学者」とされている。しかし、それには収まりきまらないところがあまりにも多いという。
「インド哲学者」としても同じことがいえる。

 中村元は、東西の思想・哲学を俯瞰し、普遍的思想史の構築の必要性を訴え、死ぬ間際まで自らそれに取り組んだ思想家であり、哲学者であった。

 博士論文では、サンスクリット語で書かれたアビダルマや、大乗仏典、ジャイナ教や、バラモン教の文献、さらにはギリシア語の文献や、漢訳、およびチべット語訳の仏典に引用された断片から、ヴェダーンタ哲学史の千年にわたる空白部分を復元した。

 インド人の学者たちをも驚かせるほどの離れ業を成し遂げた。サンスクリット語、パーリ語、チべット語、英語、ドイツ語、ギリシア語、フランス語に精通した語学の天才にしてはじめて可能なことであった。

その論文は、六千枚以上というあまりに膨大な量で、弟に手伝ってもらってリヤカーで東京帝国大学に運び込んだという。

指導教授の宇井伯壽は、思わず「読むのが大変だ」と漏らしたという。

その論文によって、文学博士といえば、七十歳、八十歳になって受けるものと言われていた当時、三十歳の若さで文学博士の学位を取得した。
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