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幕末薩摩藩の偽金作り

幕末においては、金と銀の交換比率が,日本が1:5であり世界では1:15であり、結果金貨が大量に流出してしまった。

外国人が銀貨を日本に持ち込んで,日本の金貨を安く手に入れた仕組み」は、
外国では金と銀の交換比率は金1:銀15ででしたが」日本は金1:銀5と銀高でした。

外国で金1gと銀を交換するためには銀15gが必要でしたが,日本では,同じ金1gを5gの銀と交換することができ,外国で交換するよりも銀の量が少なくて済みました。
つまり,日本に銀をもっていくと他の国の3倍の金が手に入る計算になったのです。
(日本で銀5gで手に入れて持ち帰った金1gが,外国では金1:銀15の交換比率のもとで,銀15gになったのです。まさに濡れ手に粟でした。)

そのため,1:5の交換比率のもと,少ない量の銀貨で日本の金貨である小判と交換して安く日本の金貨を手に入れることができたので,外国人は多量の銀貨を日本に持ち込んで日本の金貨と交換して巨利を得ることができたのです。
こうして,日本の金貨が大量に海外に流出していきました。

貿易の開始で,金銀比価の違いにより金貨が大量に流出したこと,幕府はその対策として質の劣る万延小判に改鋳したこと,その結果,貨幣の価値が下がり物価が高騰した。所謂、インフレです。

そして,この物価の高騰が庶民や下級武士の貿易に対する不満や反発を高め,攘夷運動のおこる経済的背景となったのです。

万延元年(1860)、幕府は金の含有量をそれまでの3分の1に減らす改鋳により、金銀の交換比率を外国並みとし、金貨の流出に歯止めを掛ける。

また、鋳造量をふやすことにより、金貨不足に対応しようとした。金貨の品位を落としたうえに量産したことで金貨の価値は暴落し、激しいインフレが起きたのだ。

物価高騰により社会情勢は悪化し、そんな事態を招いた幕府の権威も失墜していく。

具体例では、「改鋳インフレ」と共に日本の主要輸出産品、生糸が輸出により国内が品薄となり相場が上昇します。国内の西陣などの絹織物産地では生糸の入手が困難になり空前の不況に陥ったとされます。同様に茶等も含めた輸出産業の発展で関連産業も含めインフレが進行します。

日本国内の流通システムも輸出入を含めた再編があり、幕府の統制が破綻しインフレを助長します。

二度にわたる幕府と関ヶ原の負け組で防長2州に封じられた恨みを遺す長州との戦争が起きます。兵糧や資材を含め物価が上昇します。

特に第二次長州戦争から鳥羽伏見の戦いまでの長い間幕府の大軍が大坂に駐屯し米相場を底上げします。軍事費を中心に膨らんでいた歳出を賄うため、通貨を偽造する藩が続出する。幕府からしてみると鋳造権の侵害であり、贋金に他ならなかった。幕府権力維持のため派遣された大軍はそのような経済的理由で局地戦敗退を機に終戦、結果は幕府の権威失墜、倒幕に拍車がかかったのです。

明治維新はやはり関ヶ原の負け組、薩摩藩と切り離すことは考えられない。負け戦が決定した関が原の戦場を後に一途な戦場離脱を計り遠く薩摩に帰還したことは有名だ。その苦労と損害、屈辱を思い以来徳川打倒が薩摩島津家中の暗黙の了解となっていたのだろう。

文久2年(1862)、薩摩藩は支配下にあった琉球を救済することを名目に、琉球通宝の鋳造を幕府から許可される。許可を願い出た本当の目的は、琉球通宝の鋳造を隠れ蓑に、天保通宝(1枚で銭100文)など幕府の貨幣を偽造することだった。

その偽造量は天保通宝だけで290万両に及んだという。幕末の徳川打倒への薩摩藩軍事力増強の資金になったことは想像するにたやすい。

大量に偽造した贋金が流通していけば、貨幣の価値がさらに下落する。物価高騰にも拍車がかかり、幕府の権威は失墜の一途を辿る。贋金を摑まされた外国商人が幕府に抗議することで、国際問題にも発展していった。このようなことも幕府の弱体化を図る薩摩の深謀遠慮であったのだろう。

こうした通貨の混乱を受け、幕府は信用貨幣、つまり紙幣の発行を計画する。慶応3年(1867)、外国の通貨事情にも明るかった勘定奉行・小栗忠順は、大坂の豪商の資金力を借りて紙幣を発行しようと計画したが、実現をみないまま幕府滅亡の日を迎える。

幕府に代わって登場した明治政府は、財政的な基盤がほとんど無きに等しかった。そのため、御用金を豪商に献納させる一方で、慶応4年(1868)5月以降、太政官札という不換紙幣を大量に発行して歳出に充てる。坂本龍馬が高く評価した福井藩士・三岡八郎(由利公正)の献策だった。

藩札は金貨などの正貨と引き換える義務がある兌換紙幣だが、不換紙幣には、引き替える義務がない。

明治2年(1869)5月、政府は発行予定の新貨幣(金貨)といずれ引き換える方針を示すことで太政官札の流通をはかるも、誕生したばかりの政府の信用不足もあり、太政官札の交換価値が額面の金額を大きく下回ってしまう。

なお、太政官札は10両、5両など高額面の紙幣であったため、1分、1朱など小額面の紙幣である民部省札も発行された。

新しい紙幣は発行されたものの、幕府鋳造の三貨(小判 ・丁銀・豆板銀 銭貨)も発行・流通していたため、明治初年は三貨や太政官札などの紙幣、そして藩札が混在する状況にあり、経済が混乱する原因となっていた。そのうえ、諸藩が偽造した貨幣も大量に出回り、さらには太政官札の偽札まで登場したことで、その傾向に拍車がかかる。通貨の混乱が物価高騰を招くという、幕末以来の図式が続いていた。

大名貸で巨利を挙げていた大坂の両替商の天王寺屋五兵衛、加島屋作兵衛たちは、そんな混乱のなか、連鎖する形で倒産していった。

通貨の混乱を逆手に取って、巨利を挙げた人物もいた。安田財閥の創始者・安田善次郎だ。暴落した太政官札を大量に買い取った安田は、政府が額面での流通を義務付けたことを追い風に、その価値が上昇するのを待つことで差額をまるまる手に入れた。政府に恩を売ることもでき、この後、政商としての道を歩んでいくのだ。

明治維新というものは先ず武力討伐という軍事面が話題になるが、薩摩藩のように関が原で西軍に味方した故に減封を余儀なくされた恨みを晴らすべく動機のようなものがあった事も注目しなけらならない。

幕府体制が緩み始めた幕末に偽金作りで利益を上げ幕府の失墜を計るとともにやがて軍事でも圧倒していく下地を作っていったのが歴史の真相の一面でもあるのだ。

尊王攘夷を旗頭に戦った長州も然り、関が原戦後の毎年の正月に城中に集まった家中一同の胸の中には徳川へのリベンジがあり、ハイパーインフレが齎した世間の不満を攘夷に結び付け世論形成を図ったのが長州の戦略だった。

変革とか革命は経済問題の矛盾からもたらされるのは世界の世の常である。明治維新も詰まるところは、そこに端を発している。

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