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広瀬武夫


今回は軍人を取り上げた。広瀬武夫は、明治時代の帝国海軍士官である。
私は、いくつかの記事をNoteに書いてきたが母親の弟3人が戦死している関係で軍人とか戦争について語るものは少なかった。
しかし、軍人個々の人柄を見るととても人間的で純粋な人が多いのも事実だ。
戦死した3人の叔父たちも揃って優しく、姉思いで親孝行であったと聞く。優しいものほど戦場では早く死ぬのかもしれない。
広瀬武夫も、優しさと純粋さにおいては人語に落ちないであろう。

彼は日露戦争の初期、旅順港口閉塞作戦でロシア巡洋艦の砲弾直撃を受け戦死した士官である。

広瀬武夫像

日本は四海囲まれた島国である。今も昔も外洋を閉鎖されたらいたずらに死を待たねばならない宿命がある。
日露戦争は日本周辺の制海権を巡ってロシアと戦争したと理解しても間違いではないのだろう。不凍港を求め極東への南下政策をとるロシアにとって日本は現在のクロアチアであり、当時の政治軍事情勢を見れば早晩日ロの衝突は必然であった。

日清戦争後日本の戦後戦益をロシアは干渉し清国に返還させ、自身は武力で清国を脅し旅順港を租借し、難攻不落ともいわれた要塞を築き日本に軍事的圧力を加えたのだ。

ロシアは世界一の陸軍国、海軍国であり特に海軍は2セットの艦隊を持ち、一つはヨーロッパのバルチック艦隊、もう一つを極東の旅順に集結させた旅順艦隊である。
艦船総トン数では2倍以上勝るロシアは、開戦後は2つの艦隊を旅順港に集結し東シナ海、日本海、オホーック海、太平洋を封鎖して日本を孤立化させようとしたのだ。
中国大陸には日本の派遣軍がロシアの大軍と対峙しておりその補給路を守るため制海権確保は日本海軍の絶対的な生命線であり、使命であった。

バルチック艦隊合流までは旅順艦隊を湾口深く温存し艦隊決戦を避けるロシア。砲台に守られ動かないロシア艦隊ならば、そのまま外洋に出られないようにその狭い港口に軍艦を沈め封鎖するための作戦が練られた。旅順港閉塞作戦である。

1904年(明治37年)2月から海上封鎖作戦が始まった。三次にわたって行われたがいずれも旅順港を十分封鎖するに至らなかった。次第に日本海軍は焦り始め陸軍は旅順要塞攻撃を本格化した。

3月26日午後6時半、根拠地を出発した閉塞船は27日午前2時に港口に向かって単縦陣で直進した。しかし第一回目同様、ロシア軍の探照灯や砲撃による妨害で目的を達することはできなかった。

 広瀬武夫が指揮を執っていた福井丸は、最初に自沈した千代丸の側で爆沈準備をしている最中に敵駆逐艦の雷撃を受けて浸水を始めた。

そこで脱出のため総員、後甲板に集合したが、杉野上等兵曹の姿だけが見あたらない。
広瀬は「杉野、杉野」と呼びながら三度船内を探し回ったが、遂に見つからず脱出用のボートに乗り込んだ。部下の捜索をせずもう少し早く脱出していてら生きて帰ることが出来たという悲劇であった。
脱出中に敵砲弾の直撃を受け肉片が飛び散った壮烈な戦死だった。

部下思いは広瀬武夫の人格、品格そのものであった。外国人もその品性で強く引きつけられたという。

過って広瀬は駐在武官としてロシアに赴任したことがあった。
その時、広瀬を心から愛した女性 の一人が、コワリスキー大佐の娘アリアズナである。

美貌の彼女に言い寄るロ シアの若い海軍士官は少なくなかったが、彼女は異国の人、広瀬に思慕の情 を寄せるようになった。
一家とつきあうようになって段々その思いは急速に深くなっ た。純粋で無垢、一面少年の如き心を宿し、酒も煙草もやらぬ、まじめな男は 今まで女性とのつき合いは全く無かった。

NHK坂の上の雲からのアリアズナ イメージ

アリアズナは広瀬の正直さ、誠実 さ、飾るところのない純朴さ、優しさ、そして男らしい剛毅さに強く心惹かれ るのであった。

まじめで道徳堅固であった武夫もアリアズナの慕情 に引かれた。

たとえ異国の人間とはいえ、コワルスキーは立派な軍 人だったし、その娘であるアリアズナは貴族の子女として申し分のない人柄と魅 力を備えた素晴らしい女性であった。

広瀬もまた彼女を深く愛するようになっ た。 広瀬は彼女から愛をうちあけられた時、真剣に思い悩んだ。広瀬はこの時、 兄勝比古の妻春江にこのような手紙を送っている。

「かりに武夫が縁ありて碧 眼金髪(へきがんきんぱつ)の児をご紹介する時があるなら、御義絶などと御 憤慨遊ばれまじきや。その点につき、まず第一にお伺い申し上げたく存じま す。実は武夫も当露国において、などと切り出したならば吃驚(きっきょう) の程度はいかがなものでしょうか」

春江は驚いたが、その時は西洋館をたてて 待っていますと答えている。広瀬にとって、彼女が戦うべき相手のロシア 女性でなければ、どんなによかったことであろう。到底この恋は実らぬ恋であ った。

明治35年、約6年のロシア生活を終えて帰国する時、アリアズナは 別れを惜しんで声をあげて泣いた。

広瀬も断腸の思いのなかで、日頃愛唱して いたロシア詩人プーシキンの詩を自ら漢詩に訳し、万感を込めアリアズナに与 えた。

アリアズナの美しい目元、 アリアズナの美しい花のような顔。
アリアズナを深く愛する真心、 広瀬もまた、この別離に詩を送るほどの悲しい涙を流したのである。

ある時アリアズナは日本の軍艦、朝日の名前の由来について武夫に尋ねたことがあった。
武夫は「アサヒとは日の出のこと、朝のぼる時の太陽のことです。ほかにもハツセ、フジ、ミカサなど日本の山の名前をつけた船があります。フジはおそらく世界で一番美しい山です。
わたしの国・日本ではみんな美しいものを愛しています。
ですから、堅牢な軍艦にもわたしたち日本人は詩のように美しい響きをもった名前をつけるのです。
力は強く、しかし心はやさしく、姿も美しい。これが日本人の理想なのです」

 アリアズナはこの広瀬の言葉に深く心をうたれ、「この人は自分の国を本当に愛している。その愛から生まれた信念があるからこそ優しくて強いのだ」と思った。

また、広瀬にはロシア人の友人がたくさんいたが、特に海軍兵学校を卒業したばかりのボリス・ビルツキーとは親友でした。年下のボリスは広瀬を「タケニイサン」と日本語で呼ぶほどでした。

 広瀬の日本への帰国が決まると、ボリスはお別れのプレゼントを用意してくれました。
広瀬が「君と敵味方に別れたくないね」と言うと、ボリスは「戦いが始まったら、お互いの愛する自分の国のために全力をあげて戦い抜きましょう」とつらい気持ちをおさえて答えました。
 日本に帰国するときには、広瀬にとってロシアは第二の故郷となっていたのでしょう。

それからは2年後日露戦争は始まった。
武夫は自ら志願した旅順港閉塞作戦で、爆破する船から救命ボートに移った時、部下、杉野がいないことに気付いた。沈みゆく船にただ一人で戻り、杉野を連れ戻すことは(結果、敵弾が命中し死亡)彼の日頃の言動からすれば当然の行動であった。

広瀬のロシア駐在は長かった。足かけ6年に及び、その間、ロシアの海軍武官の間で最も人気ある外国武官が広瀬だった。

人間として優れた広瀬武夫はロシア宮廷の婦人たちのあいだでも人気があり、その中で、当時ペテルブルグの貴族の娘の中できっての美人といわれたアリアズナ・コヴァレフスカヤという娘に前述のように熱烈な求愛を受けたが、アリアズナの他にもロシア女性から愛ともいえる尊敬を集めていた。

その一人は、彼の壮烈な死を知って、敵国ゆえ敢えてドイツ語でひそかに広瀬の兄嫁に宛て、彼女もまた長文の悔やみの手紙を送った。

私どもはあの方の情け深く誠実なお心を決して忘れることはございません。あの方は本当に偉大で、高貴たぐい稀な方でございました。・・・」この手紙を読んで感動しない日本人はいないだろう。
敵国軍人に対する悔やみ、しかも日露戦争敗戦国の一員であるにもかかわらず、広瀬武夫ついてこんな手紙を書かずにはいられないほど彼は高潔の人であった。

旅順港閉塞は広瀬たちの犠牲を出しながら結果余りうまく行かなかった。
その後旅順要塞背後の高台203高地を乃木軍が占領し、そこに設置された大型砲により港内に停泊するロシア艦を狙い撃ちし沈めた戦果により旅順艦隊せん滅に成功したのだ。
この成功により、本国から回頭されたバルチック艦隊との兵力差はある程度解消され日本海海戦を迎えた。
日本海海戦は史上例を見ない日本側の完膚無き勝利に終わり日本の独立は保たれたのだ。

私は戦争賛美者でもないし戦前の日本を擁護するものでもないが、現在私たちが平和に生きていられるのも命を捨て礎になろうとして散華した多くの兵士がいたからと言っても過言ではなかろう。

戦後日本は広瀬武夫の像を軍国主義賛美として撤去した。
価値観や視点に一貫性がないのが日本人の弱点であろう。

私の祖父母は戦死した3人の息子の最後を世間に語ることがなく死んでいった。(上海事変で死んだ長男は英雄として遺骨が神輿に乗って故郷に帰還した。)
事の是非はさておきこれでいいのだろうかという思いは私の中で今も続いている。


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