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形に責任を持つこと

先日、友人と打ち合わせ後このまま帰るのもなんだかねぇと
どこか飲めるところがないかとウロウロしたがこのご時世、
なかなかこれといって良いところがない。

数十分歩き回り、汗だくでようやく見つけた路地裏の気持ちの良いベンチで
やっと僕らはビールにありつけた。
もちろんロング缶のストロングスタイルだ。

彼とは出会ってせいぜい5~6年というところだが
馬が合ったのか時々こうやって特に盛り上がるわけでもなく
酒を酌み交わす仲だ。
それは登壇の場でもスナックの片隅でも
今日のように街の隙間みたいなところでもそれほど話す内容に変わりはない。

話す内容だが飲んでいる時に真面目な話をしたくない僕にとって
珍しく彼とは割と物作りについて話すことが多いように思う。

共通の話題が特にないというのもあるが
近い感覚で押し付け合うことなく話せるのが嫌にならない理由だろう。

表題にある「形に責任を持つこと」というのも
その時ポロっとでてきたワードだ。

出てきた経緯はあまり鮮明ではないが
アーティストや作家とプロダクトとの違いについて話していた中だろうと思う。

「プロダクトは形に責任を持てるんです」と彼は言った。

その時僕がなんて返事をしたかは覚えてないが
電車の時間が迫っていたので、その日はそれで終わった。

なんとなくそれ以降この言葉が気になって
頭のなかをぐるぐる、ぐるぐると回っていた。

その時は何故かはわからなかった。

それから一週間、二週間と経ったある時、なんてことない瞬間に
色んなことが頭の中で整理されてスッと腑に落ちた。

あぁ、そうゆうことかと。

僕がろくろ舎として屋号でやってきたこと、
メーカーとして職人としてとこだわっていたこと、
作家とは名乗らず一点モノを作ろうとしなかった理由が
その言葉の中にあった。

僕は形に責任を持ちたかったんだ。

もちろん、念のため言っておくがアーティストや作家が形に責任を持っていないというわけではない。

僕は造形に自信のある作り手では決してない。
むしろ自信なんてないほうだ。
つまり、自分が作り出す多くの形に責任を持てるほどのキャパシティを持ち合わせていないのだ。

だから熟考に熟考を重ね、何度も何度も試作をし眺め
一つの形を作る。

納得がいかなければ出さない。

作り上げるのに本当に時間がかかるし非効率だが僕にはそれで精一杯なのだ。

多作の人は本当に凄いなと思う。
僕には到底できない。

自分では気が付いていなかったが
僕が責任を負える最小限の作り方、あるいはスタイルはもうすでに出来ていた。

それを再確認できた。
大切なことは意外と気が付いていないことが多い。

その日は暑い夏を予感させるビールが美味い昼下がりだった。

2021/6/12


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