見出し画像

ドライブ・マイ・カーを観た

今更だけど、ドライブ・マイ・カーを観た。

サントラの曲が気に入ったので、観ようと思って。ジム・オルークがアレンジした(と思われる)曲が、どう使われているのか観たかった。

夜に観始め、寝てしまい、起きたり寝たりを繰り返し、気付いたら終わっていた。どんな話だったのだろうと思って、作品の紹介を見たら、主人公の妻が死んだとあり、妻が亡くなっていた事すら気付いていないことに気付き、また観始めた(結構始めの方で亡くなっていた)。が、ほどなく、また寝てしまった。

主人公とその妻の性的な場面や、その最中や後に聞かされる妻の語りの一本調子の声のトーンや雰囲気が、私には気持ち悪く、また長く続くので、苦痛だった。これは、村上春樹のファンタジーを見させられる映画なのかと思った(小説もそうだけど、男性の書く女性像などでファンタジーを感じて辟易したりすることが結構ある)。

これは苦手な映画、と一旦は結論付けたのだけど、数日後やっぱり最後まで観ておこうと思って、途中からまた観始めた。

三度目にして、漸く、観終わった。観終わって、考えながら(また!)眠ってしまったのだが、眠りながら、ああ、と閃いたことを書いておきたいと思う。書けるかわからないけれども。

複数の階層のある作品なので、メタ的な視点でみるべき、と思った。

序盤は、とにかく、退屈で、主人公(カフク)の表情も乏しい。芝居の稽古も、セリフに感情をこめずに、ゆっくりはっきりと読む、というのの繰り返しだし、カフクのセリフも、主人公の妻も、どこもかしこも、なんだか作り物めいていて、リアリティを感じられない。嫌悪すら感じる。余りにも作り物めいていて、とてもではないが、入り込めない。夫婦関係も、妻の死も、なにもかも。

中盤、作中の芝居に参加している役者の高槻が事件を起こす。高槻は、カフクに、カフクには見えていなかった、カフクの妻、オトの言うなれば裏側の姿について語る。オトという、もう動いたり話したりしない人間の、主人公の目を通じての固定された姿が脱ぎ捨てられ、もっと生き生きとした全体像が立ち上がってくるのを、視聴者は感じる。

事件後、カフクと、カフクの車の運転を任されているミサキは、ミサキの実家のあった場所へ向かって、旅に出る。道中、互いの過去について語り合う。終始、無表情だった二人、カフクとミサキは、感情を爆発させる。それまで無表情だったのは、辛さや後悔や期待を、押し殺していただけだったのだった。

終盤、芝居が公演される。序盤に延々と見させられていた芝居が静的で単調だったのは、それが準備段階の稽古(セリフをまずは、身体に沁み込ませる)だったためだった。観客を前にした舞台の上では、登場人物たちは、感情豊かに表現し、大きな声を出し、動き、芝居を繰り広げる。芝居は、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』。

そして、芝居の最後に、ユナが、韓国語手話で語る。
この語りに心を打たれる。ここにメッセージがあったのだ。これがこの映画のメッセージと言っていいと思う(オリジナルはチェーホフだけれども)。

どんなに辛くても、生きていきましょう、というメッセージ。

この映画は、村上春樹の原作二作の要素が組み合わされて作られたものらしい(原作はずっと前に読んだけど、あまり印象に残っていない)。監督は、村上春樹の作品世界を表現しながら、その中に留まらず、複雑な層を構築して、独自の作品を作り上げたのだなと思った。

全てはこの最後の、美しいメッセージを伝えるための、3時間だったのだな、と私は感じた。

簡単に言えば、喪失をのり越える物語だけれども、そこには、例えば人はファンタジーを持っているし(持っててもいいじゃん)、誤解をしたりするし(誤解してもいいじゃん)、きちんと人と向き合わなかったりするし(そういう時もある)、傷ついたりするし(当たり前)、劣情を持ったり(本能)、暴力への欲求もあるし(本能)、失敗をするのだけど(ドンマイ)、それより何よりも悲しい目に会うかもしれないけれども、それでも、生きていきましょう、という優しい、殆ど神々しい(それを手話で語る韓国の役者のパク・ユリンさんの、ニュートラルで包み込むような優しさ美しさが、そのメッセージに力を与えている様に思う)メッセージを、ゆっくりと浸み込むように、私たちは読む(ここにも、言語の複数の構造がある)。

韓国語手話の、信じる、の部分はこれかな、と思い、その美しさと力強さに、はっとする。

また、作中、煙草を吸うシーンがよく出てくる。私はカフクとミサキが煙草を車の屋根の窓の上に出すシーンが好きだった。ロウソクのようだ、と思った。弔いをしているのだな、と思った。

実際、その後、ミサキは、煙草を、線香にみたてて、母親の逝った実家跡に捧げる。

喪失を描いた物語。物語が運ぶメッセージ、それぞれの喪失があるが、それを抱えながら、克服しなくてもよいから、ただ、生きればいいのだ、というメッセージは、本当に優しいと思った。

それが、作中作という重層的な構造によって描かれている、と思ったのだろうか。半分、夢うつつの中では、はっきりと、この作品の構造が見えたように思ったのだけど、その見えたものが、果たしてきちんと書けているかどうか、ちょっと自信がない。

この映画が好きかと問われれば、よくわからないけれども、あの、ユナの韓国手話の語りは、何度でも何度でも、観たい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?