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ハルキ・コード 風の歌を聴け①

風の歌を聴けの枠組み

ハルキ・コードを語るうえでこの作品は欠かせない。今も昔もこの作品は村上春樹の原点となっている。プロローグでも書いたがこの作品はとても違和感のある仕上がりとなっている。その理由のひとつとして、聞いたところによるとこの作品と次作の「1973年のピンボールは編集の手を入れないように求めたとのことだ。
それが何故かは今の私にはわかる。違和感のある表現には変えて欲しくない事情があるからだ。

この作品は主人公である「僕」が現在の視点から過去の大学生時代に地元に帰省したときのエピソードを話中話の形で語るという体裁を取っている。
「体裁を取っている」というのは作品を読み解いていくと、実はそうではないことがわかるからだ。

答えを言えばこの作品の全体は「僕」の脳内で起こった出来事となっている。「小説なんだから想像上の物語に決まっている」という意味ではもちろん作家の脳内の出来事なのはあたりまえだが、これはそういうことではなく登場人物である「僕」が実際には起こっていないことをあたかも経験したかのように語っている、ということだ。

この手法は後の作品である「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終わり」で再現されている。つまり全ての登場人物は「僕」の脳内にしか存在しない。鼠しかり、小指のない女しかり、ジェイしかり、デレク・ハートフィールドしかり。そして街そのものですらも[僕」が脳内で作った街だ。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ方ならイメージしやすいだろう。

なぜそう言い切れるのか。もちろんそれはこれから読み解いていく。
ぜひこの作品の不思議な世界を知ってほしい。
ただ、この作品は作者が「自分の全てだ」というだけあって、また、デビュー作のため用意周到にかかれているため、相当に複雑な内容になっている。その全てを明らかにするのは個人では無理そうだ。それでも僕がわかっていることは全て書いておこうと思う。これを読んだ誰かが続きを書いてくれることを願って。


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