2019.05.06以降一週間ぐらい

言葉というものについて個人的な感覚を持っていて、それは内容を指示する形式であり、形式と内容のいくつかの対の束と考えたとき、その作用は形式から類推される内容によって、形式自体から内容が発生することにより、よって書いた者の手を離れて、自発的に内容を獲得することだ。それについて良いとか悪いとかはなく、ただそうあり、それらを読む私らがいる。

谷崎由依さんの「藁の王」を読んだとき、こんなツイートをした。

読んだ感想をまとめようとしてもなかなかできなかったのは、登場人物たちと作られた小説とに流れている文脈が入り乱れ、それぞれが相互に影響し、その混乱に端を発する苦しみが、あの時の私にとって説得力を持ち、書かれたことに対して何かを言うことに自体に、無神経な利己心を見出したからだ。

前期最後の課題を、彼女はとうとう提出しなかった。わたしはそれでも授業中には責めることができず、式丸がちいさな声で、えこひいき、というのが聞こえた。(57ページ)
ここで自由にならなくちゃ。(63ページ)
あなたは、自分の手を汚さないじゃない。(93ページ)

フィクションであるとはいえ、書かれた登場人物は当事者であり、それについて、関係のない、傍観者である読者である私が何か言葉を発する意味はなんなんだろうか?ここで描かれていた様に、複雑な文脈を無視して他人が理解可能な形にすることで、何かしら一義的な意味を付与させることは、それはやっていいことなのか?呪いの類ではないのか?では小説を書く、感想を書く、意見を表明する、とは、まだ同定し得ないものについて、物語や表現技巧により制限してしまうものなのか?そんなことしていいのか?

小説を書き、誰にも読まれないもの誰かに読ませようとする身としては、自分の行いや振る舞いや手つきがとても汚く見えてしまったが、辞めることもできなくそのままずるずると毎日1000字書き続けた。

書き続けて99枚かけた時、足を延ばせる範囲でイベントがあったので行ってみた。

話を聞くだけなのに非常にこわばった、晴れた冬の朝の洗顔した直後の顔見たいなツッパリみたいな気持ちだった。ルクアイーレのツタヤは円周状に棚が配置されているので、2周半した。その間に気になった本数冊を持って買い、会場に向かった。ずっと落ち着かず買った本や持ってきた本を読んだり閉じたりしていた。メモとペンを持ってきてよかったと思う、白地を黒色の線で埋めていくことが救いだった。

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トークショー自体はとてもリラックスした雰囲気で行われた。ラジオみたいだなとも思った。

そこで大前さんの一言で、「小さい子どもは変なことさせやすい」とあり、それをノートにそのまま転記した。それから話を聞きながらどうして「小さい子どもは変なことさせやすい」のか考えた。

小さな子供というのは経験が少ない。ここでいう経験は、こんなことをしたというもの以外にも、経験と経験を結びつける経験も含む。こうしたらああなるとか、このためにはああするとか、因果関係を理解したり、自分自身を関係に再帰させること。それらの関係は自分と周りを捉える形式とすると、形式の少なさがとらえる世界は混沌としていて、次に何が起こりうるのか、起こったことはどう捉えることができるのか理解ができない。だから、水の入ったコップをひっくり返してみたり、急にスプーンを投げて受けてみたりするんだと思う。それが何を引き起こすのか分からないし、それが何を意味するのかも分からないから。それを共通の形式を持った、ないし持っていると思っている大人たちは、自分たちの形式ではとらえることのできない振る舞いは理解ができず、理解できないことは変であり、ただし形式の少なさゆえに現れる意味不明さは、論理展開としてこれも一つの形式であり、それは理解ができるので、それらの振る舞いを愛おしいものとして見ることもできる。こんな感じかなと考えた。
意味がわからないことの原因がわからないと、子供の振る舞いの愛おしさに相当する思いをそれらに対して抱くことは難しくなると思う。なぜならそれは現れたものとして意味不明である以上に、それがどのような構成要素の繋がりで出来ているのか、どの文脈においてそのものが位置するのかも理解ができないのであり、3重の理解困難さがある。それ自体の理解困難さ、それをなすものの理解困難さ、それがなすものの理解困難さ。形式による理解は生きるためだと仮定したならば、3重の理解の困難さは真っ直ぐ死ぬことと生まれることの二つに向かっている。ここまで考えて天井の給気だくとの断熱材の銀色が気になって、また話に集中した。
その後もトークは進み、場も少しずつ暖まり出した。話題は小説を書くにあたってどのようなものを参考にするかに移っていった。三人とも現実の生活と仰っていたのが意外だった。
この時に不意に思いついた。現実を足場にするということは、ある一つの意味として完結しているものに対して、また別の意味を見出すことと考えることができると思う。そして別の意味を付与された意味の世界の中で、それを構成しているもの(書いている本人や文体や構成や単語やフレーズetc)もそれが構成しているもの(読んだ人の感想、その後の生活はもちろん、本の装丁や販売形式や売上etc)も変化する。一から始まって多に展開し、また別の一を生成する運動があり、それぞれは独立してあるのに連動してある運動をなしている。ここに神秘性というか、何かしらの価値というか、否定しかかっていた書くことについての呪縛性に他するカウンター的な考えがあるなあと思った。そんな作品を書いてみたいとも思う。

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