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オートバイに乗る気骨

オートバイが生まれた時から変わらないもの

昔からオートバイという存在は
男気の象徴
不良の乗り物
根性のある者が乗るもの
僕が子供の頃はそういうイメージが強かったし
新聞配達や郵便配達などの職業バイクを除けば
オートバイに乗る人の殆どは
男気があり気骨があり、世間や社会に対しての
反骨精神を持つ人が多かった
どんなに埃まみれになっても
どんなに風を受けて寒い思いをしても
死にそうな目に遭っても
やっぱりバイクには乗りたい
そういう人ばかりだった

僕がオートバイを降りてからリターンするまでの30年間
世の中の仕組みや考え方
オートバイそのものも
ありとあらゆることが大きく変わってしまった
今やオートバイは不良の乗り物ではない
オートバイは男だけの乗り物でもない
女性がグルメな旅にお供をするようにもなった
多様性の社会ではオートバイとの共存もできている
でもただ一つだけ
今もまったく変わらないことがある
それはオートバイでの失敗は命に関わるということ
それだけは
60年前も今もまったく変わらない

オートバイには男しか乗るな
不良の乗り物だ、お坊ちゃん、お嬢ちゃんは乗るな
気骨のない奴は乗るな
そんなことを言うつもりは微塵もない
オートバイが好きなら
どんな立場の人でも
どんな職業の人も
どんな考えの人であっても
年齢や性別に関係なく乗って欲しいと思う
これは正直な気持ち
でもその一方で
「覚悟のない奴は乗るな」とも思う
それも正直な気持ち
チャラチャラと楽しく
まるでカラオケでも楽しむような軽い気持ちで乗れるほど
オートバイは甘い乗り物じゃない
自分の命も仲間の命も守るという覚悟がないなら
昼寝でもしていろ   と
僕はいつもそう思っている

いくら多様性の時代であっても
どんなに社会が多様性であっても
オートバイは心の底から誰にでも歓迎される乗り物じゃないし
社会と共存することはできても
決して社会の中で共生できるような乗り物ではない
もしもバイクがそんな乗り物だったら
僕はオートバイを降りる
だから
色々な意味で覚悟が要る
覚悟ができないならオートバイに乗るな
気骨のある者にだけ乗ってもらいたい
それが嘘のない本音

勉強は嫌いだ

子供の頃は勉強嫌いだった
自分から進んで勉強なんてしたことがなかった
ノートに漢字を書く
本を読む
計算をする
400字詰め原稿用紙に至っては
僕にとっての折り紙だった
学校では仕方なく授業を受けたけど、家に帰れば遊ぶことしか
してこなかった

オートバイと一緒に生きようと決意した時に
信じられないことが起こった
知り合いのバイク屋へ行って整備士向けの教本を貸してもらった
2サイクルエンジン
4サイクルエンジン
オートバイの整備全般
どういう仕組みでエンジンが動くのか
どういう仕組みで電気系統が動くのか
どういう仕組みでガソリンの爆発が車輪を回すのか
一字一句余さずにノートに書き写した
書かれていることの意味がわかってもわからなくても
全て書き写した
図示されているものはコピーしてノートに貼り付けた
そう、信じられないことだが
誰に言われたわけでもなく
自分から進んで勉強した
勉強したくて仕方なかったし
しないではいられなくなった
だから教本にかかれたことのすべてを勉強した
勉強嫌いの自分にとっては人生の中で唯一の例外が
オートバイという存在

排気量の計算は円の面積を出してストロークする距離を乗じる
圧縮率の計算は排気量を算出してからだ
何故エキパイの1番と4番、2番と3番を集合させるのかもわかる
オームの法則やワットの法則がわかれば
ウィンカーのしくみもヘッドライトの明るさもわかる
クランクシャフトのクリアランスはプラスチゲージを使って測定する
キャブレターの同調なんてそんなに難しいものじゃない
何故点火時期の調整が必要なのかも

オートバイの仕組みがわかればわかるほど
もっとオートバイが好きになった
もっと触れたいと思った
勉強って、本来の勉強ってこういうことだと知った時には
皮肉なことにもう学生ではなかった

くだらないことだけど

まだ駆け出しの20代の時
スクーターのパンク修理をした
慣れていないのだからできなくたってしょうがいのかもしれない
でも思うように修理できなくて時間ばかりかかったら
そんなものに何時間かかっているのかとバイク屋のオヤジに怒鳴られた
それが悔しくてあまりにも悔しくて
バイク屋の裏にあるごみ捨て場で
捨ててあるスクーターのホイールを見つけて
チューブの出し入れを繰り返した
10回、20回、30回くらいだろうか
ただそれだけを何回何回も繰り返し練習した
そんなことをしても誰も見ていないし誰も褒めてはくれない
でもどうでも良かった
くだらないことだけど、パンク修理くらい
当たり前にできるようになりたかった

エンジンのパーツを洗浄する時はガソリンや灯油を使っていた
大きなバット(四角いプラスチックの器)に灯油を貯めて
その中にパーツを入れて手を突っ込みブラシで洗浄する
スプロケットやチェーンを交換すれば手は油で真っ黒になる
エンジンを下ろしても手は油まみれになる
だからトイレに行く時や書き物をするには
その都度クリーナーで綺麗に手を洗い油を落とす
そしてまたすぐに手は油まみれになる
それを日に何度となく繰り返すので手の皮膚はかなり荒れる
ある冬の寒い日も同じことをしていた
皮膚は荒れている上に乾燥しまくっていたせいで
突然プチッという音がしたので手を見ると
パックリと手の甲があかぎれで割れて(裂けて)血が出ていた
くだらないことだけれど
人生で音のするあかぎれを始めて経験した
それでもまた
傷口の塞がっていない手を灯油やガソリンの中に突っ込んだり
油まみれにしていた
傷口から血が出ない、真っ黒な油が止血する役割になっていた
当の本人はそそんなあかぎれを嫌がるどころか
嬉しいと思っていたのを覚えている

事故の後始末

僕自身、オートバイの事故が原因で足の親指が完全に潰れた
事故の後で病院に担ぎ込まれてすぐにレントゲンを撮った
医者にレントゲン写真を見せられた時
素人目にも骨が細かく砕けていることがわかった
顔を近づけて一つ一つ数えると
親指の骨は少なくても20以上の破片になっていた
親指は開放骨折しているから菌が入ってしまったら切断するしかない
と医者が言うので、なんとか残して欲しい
たとえ動かなくてもいいから形だけでも残して欲しいと言った
ラッキーだった
今も形だけは残っている
関節はなくなったのでブラブラなままだし
親指の爪は根本からなくなってのっぺらぼうだけれど
歪な形の親指は今でも健在だ

そうだ 思い出した
親指を潰して入院している時
同じ病室には
バイク事故で骨盤を複雑骨折した同世代の男が寝たきりだった
バイクで事故を起こした仲間同士
互いに会話をするようになったけど
彼は仰向けに寝たまま数週間を過ごしていたので
彼は常に天井を見ながら僕と話していた
僕も彼の顔をまともに見たのは
退院するほんの数日前のことだった

仲間

しばらくの間ツーリングに姿を見せない後輩がいた
「あいつ最近来ないね」
と何も知らない僕がそういうと
「車椅子になちゃったから来れないんだよ」
と言われて初めて知った
事故で下半身不随になったのだと
半身不随でも生きていて良かったと言うべきか
可哀そうにと同情すべきなのかもわからない
一緒に仕事をしていた後輩はバイクで事故って死んだし
一瞬だったらしい
苦しまずにすんだのだと思うと
半身不随と単純に比較することもできない

世の中の殆どのことは後始末ができる
オートバイの事故はどうか?
後始末などできるはずがない・・・
というか始末のしようがない
病院に搬送され
場合によっては手術し
治療の必要がなくなったら家に帰る
「治療の必要がなくなった」には2つのケースがある
1つは体の一部が欠損または機能不全のまま治療を終えること
もう1つは本当に嫌なことばだけど 死亡
「治療の必要がない」とは治ったということではない
この2つのケースのどちらも怪我は治ったわけではない
運よく命があれば
事故の後始末ができないまま生きることになる


それでもオートバイだけは

オートバイの何がいいのか?
そんなことを聞かれてもすぐには答えられない
自分でもおかしなことだと思う
汚い
危ない
寒いし暑い
でもどうしてもオートバイだけは辞めることができない
オートバイによって人格形成し
オートバイによって人間勉強をし
オートバイによってどう生きるのかを学んだ
そういう人間にとってのオートバイは
人生の一部ではなく
人生そのものと言っていい
もはや趣味や道楽とは呼べないのだと思う
そういう奴から見たら
オートバイに乗るのなら
オートバイに乗る気骨ってものを
持って欲しいと思うのは
自然のことなんじゃないだろうか?
そこのところは
どうか許して欲しい


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