なにか違う

 僕の父は、僕が子どもの頃に交通事故で死んだ。僕はまだ小さかったけれど、その日のことはよく憶えている。その日の朝、僕は父の顔を見て激しく泣いたのだ。父の顔が、いつもと違って見えたから。
 父は、泣く僕の頭を苦笑しながらなでて家を出た。そして、それが僕の見た父の最後の姿になった。

 その後も、しばしば「なにか違う顔」を見ることはあった。初めて会った人でも「あれ。なにか違う」と思ってしまうのだ。でもそれだけだった。深く考えることもしなかった。
 その「なにか違う顔」が何なのか理解したのは、高校生のころだった。入院している友人を見舞いに病院へ行ったときのこと。あちこちに「なにか違う顔」の人がいるのだ。何が違うんだと思った。
 しかし、見舞いを重ねるたびにわかってきた。その人たちは、しばらくすると病院からいなくなってしまうのだ。
「ああ。僕には死相というのが見えるのか」と、そのときに理解した。

 僕には死相が見える。それは理解したけれども、それをどう使っていいのかわからなかった。医者になれる力もない。医者でもなんでもない人間が「あなた、死相が見えますね。もうすぐ死にます」なんて言ってたら、怖いだけだ。
 それなら、ということで死相の見える人を陰ながら助けて死を回避させようとしたこともある。正義のヒーローのように。しかし、それも無駄だった。助けようという行為が、死を呼び込んでしまうらしい。
 つまり、死相が見えたらそれは運命なのだ。僕がどうにかできるものではない。見えても止められない。
 それからの僕は傍観者を決め込むことにした。死相が見えても「ああ。この人はもうすぐ死んでしまうんだな」と思うだけだ。でも、それは他人の場合だ。自分に死相が見えてしまったらどう思うんだろう……。

 そして、そのときは来た。朝、顔を洗おうと鏡を見たら、僕の顔が「なにか違う」ように見えたのだ。僕はパニックになった。
「え。なんで。こんなに健康なのに。事故にでもあうのか? 今日は外に出ないほうがいいのか? そうだ。そうしよう」
 そう決意した瞬間に、世界が大きく揺れた。地震だ。大きい。家具がガタガタと揺れていた。見ていた鏡も、床に落ちて粉々になってしまった。
 しかし地震の被害は、その鏡だけだった。僕は生きていた。それでも僕は自分がいつ死ぬのかと怯えていたのだけど、一ヶ月経っても死ぬことはなかった。
 おそらく……死相が出ていたのは、鏡だったのだ。鏡が「なにか違う」ように見えたので、僕の顔も違うように見えてしまったのだろうという結論になった。なんだ。物質にも死相って見えたりするのか。

 それから数年経ったが、僕は死ぬことはなかった。やはり、あれは鏡の死相が見えたのだろう。久しぶりにそんなことを思い出しながらテレビをつけたら、火星に向かうロケットから届いたという映像が流れていた。美しい地球の映像だ。
 そこで僕は、その地球を見ながら「なにか違う」と思ってしまった。まさか、地球が死ぬ……?
「ふふ。なんだよ、地球が死ぬって。そんなことあるか。あっ。またあれか。これ、テレビが壊れるってことか。もう古いもんな」
 そう独りごちてテレビを消そうとしたら、ニュース速報が流れた。
「禁断のボタンが押され、これから世界にはミサイルの雨が降ることが予想されます。繰り返します。禁断のボタンが……」
 どうやら、テレビはまだ壊れないようだ。


-----


久しぶりに新潟日報読者文芸のコント欄で掲載された作品。
ひよりちゃんを書いてて日報にはあんまり投稿してなかったのだけど、投稿から半年くらい経ってからの掲載。いつもながらどういう基準なんだか。いや載せてくれてありがたいけど。五千円分の図書券は大きいから、また書くかな。

これを書いたのは父親が3月初めに転んで頭打って死んでからちょっと過ぎたころ。事故死みたいなものだからいきなりだったんだけど、その少し前に父親の顔を見て「なんか死人みたいな顔だな」と思ったことがあって、そこから着想したお話でした。もちろん死相が見えたとかそんなことじゃないのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?