天才型が抱えた劣等感

 最近気が付いて間もない話であるのだが、私はどうやら天才型らしい。私が認識している天才だと言われた最古の記憶は中学2年生の時なのだが、今更気が付くことになる理由は単純であり、なんとも面白みが何もない話だった。

 私は当時学業の成績が良かったわけではない。上の下とすら言えるレベルではなかった。だからこそ私は理解できなかった。テストで私よりも遥かに高い点数を誇る生徒ですら私に、「天才だ。」などとのたまった事も幾度かあったが、そんな事は私からすれば、からかってるようにしか見えない事は言うまでもない。
 私が住んでいた場所は田舎だったので、幼稚園から中学まで、ほとんど同じ面子だった。そのため中学を卒業し、高校に入学した際に私は自分の知らないタイプの人間と出会うことになる。この時点でようやく私は、自身が物事に対する理解力が一般的な人間よりも優れていることに気が付いた。今思えば気が付かない方が幸福だった気もする。他人より優れている、私が他人を見下す癖がついたのはそんな思考をするようになってからだ。
 他人との比較によって得たのは他人より優れているといった優越感だけではなく、私の本質に他人との違いなどなく、人より劣っているという劣等感もまた得ていた。この相反する感情を抱えた私は大学に進学し、また自分の知らないタイプの人間に出会う。そして今更私は他人の言う天才の定義を理解した。どうやら私のような理解力があり、物事の本質をすばやく捉え、そつなくこなすような存在は、天才型というらしい。

 私は天才型かもしれないが、決して天才などではない。本当の天才には理解力だけでは追いつけない。彼らには劣っている。努力をしても埋められない思考力の差が私に劣等感を与えていた。本当に優れているのは、努力型なのかもしれない。





この物語はフィクションだと思います。


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