見出し画像

『自給再考――グローバリゼーションの次は何か』 とちぎVネット2009年1~2月号 市民文庫書評

『自給再考――グローバリゼーションの次は何か』
西川潤、関曠野、吉田太郎他著 山崎農業研究所編 農
文協発売 定価(本体1500円+税)

評者 白崎一裕

2008年は、毒入り餃子事件を発端に、にわかに、日
本の食糧自給率がマスコミから巷の井戸端会議まで話題
となった年だった。カロリーベースで40%を切るぐら
いしか食糧自給はできていないらしい、という数字と加
工食品や生鮮品の産地表示をみて「中国産」は買わない
という消費者行動のみが突出していた。しかし、ヨーロ
ッパ先進国の食糧自給率が高く、ほぼ100%前後から
それ以上を保っていることは以前から知られていたし、
はたまた、どうみても和食の代表、天ぷらそばのほとん
どが輸入食品によってつくられているということも話題
になってはいた。しかし、これまで消費者は、それらの
問題の根底に横たわるものを自分たちの問題として深く
考えることなく、安くて・おいしいもの、そして、次に
安全・安心なものというようにその欲望を生産者などに
放出・転化してきたにすぎない。
 
本書は、その「自給」にまつわる行政や国民の右往左往
を根底から考え直そうという目的で企画された。編集代
表の田口氏は、次の様に言う。『私たちの問題意識は、
次の三点に要約される。1、マスコミを中心に語られて
いる「食糧危機」論に欠けているものはないか、危機の
核心はどこにあるのか。2、産業としての「農業」は暮
らしとしての「農」に支えられており、それゆえに「自
給率」を論じる前に「自給」そのものの意味を広く深く
とらえることが必要ではないか。3、「自給」を見直し
育てる取組が各地ではじまっている。そこから学ぶべき
ことは何か。』 この3点の編集の意図は実に的確であり
、これらの視点にそって10人の論者が「自給」をめぐっ
て発言している。その論者たちに共通するキーワードは
、直接この言葉を使用していなくても「食糧主権」ない
しは「人権としての食糧権」ということだろう。
 
実は、1948年の世界人権宣言第25条で、はじめて「食糧
権」が認められる。その後、長い間休眠状態にあったが1966
年に「国際人権規約・経済的、社会的および文化的権利
に関する国際規約(社会権規約)」第11条でふたたび「
食糧権」が採択される。また、少ないとはいえ、20カ
国で「食糧権」が、それらの国々の憲法に明記されてい
る。


これらの国際法・憲法にある「食糧主権」とは単に食べ
物を不足なく調達するということではない。論者のひと
り思想史家の関曠野氏は、世界的な農民運動ネットワー
クの「ビア・カンペシーナ(百姓の道)」を紹介しなが
ら次のように述べている。「食糧主権とは「国際市場に
左右されずに人民が自分の食物や農業を自分で定義する
権利」のことであり、ゆえに農産物を単なる商品として
流通させる貿易自由化や現地の自作農の存続を困難にす
る食糧援助などは主権の侵害となろう。さらにこれは食
料に関連して国土や食文化の在り方などにも及ぶ自分独
自の生活様式を選び守る権利なのであり、生活様式を創
造的に破壊する世界貿易に対する根源的なノーなのであ
る。」ここで、のべられていることは、空疎な政治スロ
ーガンの「主権」「人権」というようなことではない。
自らの暮らし方・生き方を問い直す意味をも含む「主権
」「人権」なのだ。そして、食料自給率の低下や食の安
全性に右往左往している国民が、実はその問題をひきお
こした共犯者なのかもしれない、ということが問われて
いるのだ。 

私たちは、より便利に、よりおしいしいものを(グルメ
とか!)、という欲望を追い求めてきた。加えて絶えざ
る「生活様式の創造的破壊」を「豊かさ」と「幸福」の
追求だと錯覚して、世界中から金の力で食べ物をかき集
めて(グローバル化!)きていたのだ。しかし、それは
主権の放棄であり、自らの首をしめる結果を招いている

最初に述べたように、食べ物の問題の責任を生産者や流
通業者におしつけることだけで問題は解決しない。その
解決の糸口は、食べ物の問題を、私たち自らの「自治」
「暮らし」の問題として再考することにあるのではない
か?と本書は問いかけている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?