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『裁判が日本を変える!』書評 民主制再構築・再定義のための「主権実現方法としての裁判」 /『裁判が日本を変える!』生田暉雄著(日本評論社)を読んで

とちぎ教科書裁判通信3号より転載 『裁判が日本を変える!』書評
民主制再構築・再定義のための「主権実現方法としての裁判」
/『裁判が日本を変える!』生田暉雄著(日本評論社)を読んで

とちぎ教科書裁判原告  白崎一裕

生田さんのこの著書は、今後、市民のための政治活動の良きマニュアルとなるだろう。
その方法を具体的に述べているのが、「第六章 主権実現方法としての裁判」 という文章だ。実は、この内容は本の出版以前に、3月の宇都宮大学で開催された「とちぎ教科書裁判講演会」においても生田さんから直接お話ししていただいている。なので、拙文の内容は、そのときの講演会のご報告も兼ねている。

 日本の戦後民主主義の歴史を振り返るとき、60年安保闘争や68~9年の大学闘争など一時的な政治運動の国民的盛り上がりがあっても、それは日本の民主制の根本的な変革にはなりえなかった。その証拠に、60年安保の後の「高度経済成長」は、日本人に「ショーバイ」と「シセイカツ」を目的として遮二無二つきすすむ経済動物の進化を促し、高度成長の陰で進行していた様々な負の側面を根本的に解決することなく、おおよそ80年代後半の「バブル崩壊」まで、その基本的流れは変化してこなかったといえるだろう。そして、それは、国民の「生活保守主義」と「政治的無関心」を常態化させることとなったのだ。

ただ、その「政治的無関心」に関しては根拠がある。それは「政治に参加している・政治に関わって何かが変わる」という実感をもてないということだ。おそらく、このことは、若い世代には顕著なことではないだろうか。生田さんは、これを「為政者のマインドコントロールに引っかかっている」と表現している。この本では、主権の実現方法について ①選挙権の行使による間接民主制 ② 選挙権を行使して選んだ国会議員が、憲法・法律の規定を裏切った場合に裁判で牽制・監視・コントロールすることによる主権の回復、その他裁判による主権の実現 ③ ビラ・デモ・座り込み・文書・インターネット等による直接民主制的権利の行使 をあげている。ところが、マインドコントロールによって、①の選挙権の行使のみに民主制における主権実現の方法を限らせ、②の裁判は「紛争解決の手段」として矮小化させ、③の直接民主制は、思想表現の自由の問題に限定させて、法の領域にまで達しないものとなっていると分析している。

まさに同感だ。まず、選挙だが、現在の大衆民主主義は、多数決と党派の動員および芸能人的人気投票に堕しており、このことが、政治に対する無関心と政治参加の無力感を増大させていっているといってよいだろう。そもそも、ルソーが指摘するように「多数決」は、時間がない場合の次善の方法に過ぎず、本来の民主制からいえば議論は時間をかけておこなわれるべきであり、それこそが民主制の本来の姿なのだ。そして、司法は、その議論の際の「正義」の基準となるものである。多数決が横暴を振るえば、少数者の人権は踏みにじられてしまう。しかし、その「司法」が欺瞞に満ちた制度だとしたらどうだろうか。正当な社会の秩序が危うくなるのではないか?そういう問題提起を生田さんはしているのだ。その証拠に裁判官の「ヒラメ化」をあげている。ヒラメ裁判官は、良心にでも法の支配にでもなく、上級審の裁判官や他の裁判官の顔色を伺い、その組織内での出世にのみ拘束される存在である。まずは、このヒラメ達にゆさぶりをかけ、司法を本来の意味での「正義」を追及する場として改革しなければならない。

そのための、生きた処方箋が、「主権実現方法としての裁判」ということになるだろう。まず、ヒラメゆさぶり方法として、「四点セット」があり、そこでは、●忌避、●地裁所長・高裁長官の監督責任追及、●弾劾裁判所への裁判官の弾劾の申立、●裁判官に対する国家賠償の請求、をかかげている。いま、「とちぎ教科書裁判」では、このうちの「忌避」と「弾劾裁判」を実行ないし準備中だが、この四点セットは、これから裁判をやろうという人たちにとっては、とても有効な手段だと思う。

それから、もうひとつ。生田さんのご指摘で重要なのは、裁判の「勝ち負け」ということだ。この種の裁判に反対する論拠としてよくあげられるのは、「負けると、その悪しき判例が残り、将来に悪影響をおよぼす」ということがある。私も、本人訴訟で裁判をしようと決意したときに、そのようなご意見を多く頂戴した。しかし、生田さんは「敗訴」とは、裁判をした結果、有効なことができなかったことをいい、判決そのものとは区別すべきだーーと言う。また、日本の司法は、判例法主義ではないので、判例は関係ないーーとも述べている。私は「とちぎ教科書裁判」は、いわゆる「抵抗裁判」だと思っている。生田さんの言われるように、裁判をすることによって行政から何を引き出してくるか?ということが重要だ。それも、具体的な法的手段を通じて行政側と緊張関係を保ちながら、自分達の存在をアピールするというスタンスである。このことは、裁判の勝ち負けを超えているのだ。
 
さて、この生田さんの本には、もう二つの柱があって、ひとつは、現在の裁判員制度導入への批判と警察の捜査および刑事裁判のありかたに関しての批判である。今回は、この二つの柱についての詳細なご紹介は割愛させていただくが、これらの内容に関しても「主権実現方法としての裁判」と同様、法を市民の手にということと、徹底した人権擁護ということが貫かれている実践的提案に満ちている。

ただ、次のことは指摘しておきたい。この警察捜査と刑事裁判の官僚独占と不透明感が実は、法の世界の要である裁判から一般市民を遠ざけてきた要因なのだ。
その証拠に、子どものうちから、「悪いことをすると警察の人につかまりますよ!」と大人たちに脅されてきていることを思い出して欲しい。つまり、法の世界というと、悪いことをしたら罰せられるというイメージであって、その具体的なものが警察や役所となってきていたのだ(このような「法」の説明をしているのが、実は、扶桑社版『新しい公民教科書』だ。扶桑社版公民は「恐怖と脅しの原理の教科書」ともいえる)。本来、法とは、禁止事項や行政のご都合主義の法度などではなくて、ひとりひとりの人権を擁護し、正しい秩序に基いた社会を創造するために存在するのだ。すなわち「法から自由が生まれる」という考えである。ところが、生田さんが批判するように、捜査は、自白に基く調書主義で、刑事裁判については「欧米の裁判所は有罪か無罪かを判断するところだが、日本の裁判所は、捜査機関が有罪であると言っている犯人について、有罪であることを確認するところ」となってしまっているのである。(だから、裁判も怖いもの!という人がいるのだろう)

この原理は、「恐怖と脅しの原理」である。もともと、明治維新を準備した権力者達は、西欧への恐怖心と民衆への恐怖心と敵意から、明治という時代の秩序を構築したところがある。日本という社会は、いまだ、この「恐怖と脅しの原理」から自由ではない。生田さんのこの著書は、この負の原理からの脱却を勇気づけてくれる一冊なのだ。

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