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ボランティア情報(とちぎボランティアネットワーク編集・発行)2016年7月号 市民文庫・書評 『相互扶助の経済~無尽講・報徳の民衆思想史』テツオ・ナジタ著 五十嵐暁郎監訳、福井昌子訳

『相互扶助の経済~無尽講・報徳の民衆思想史』テツオ・ナジタ著 五十嵐暁郎監訳、福井昌子訳 みすず書房 定価5400円本体+税


評者 白崎一裕(那須里山舎)

日本の伝統とは何か?というと、意外に明治維新以降につくられた、あるいは捏造されたものが多い。たとえば、江戸期は、無知蒙昧の武士政権の支配下にあり特に農民は搾取されるだけの対象で貧しく悲惨な存在のイメージとして捉えられてきた。しかし、戦後の日本史学の進展における江戸期や中世の農村のあり方の研究の結果、農村のマイナスのイメージは、明治維新薩長クーデター政権が自らの政権の正統性を主張するために、不当に江戸期を貶めてきた結果だということが分かってきている。最近では、中学・高校の歴史教科書に「士農工商」の語句は使用されていないようだ。武士階級は、確かに存在して、年貢の取り立てなど行っていたかもしれないが、そのこと以外の農民階級は、比較的自由な存在であり、「工」「商」との階級差も流動的であったということである。特に本書との関わりで強調しなければならないのは、江戸期の「惣村自治」のありかたである。惣村は、村民自らが法をつくり、選挙でリーダーを選び村落共同体の維持を継続していた。まさに日本の民主主義の伝統は、惣村自治にあり、この民主・共和の精神は世界に誇れるものとなっている。この惣村自治を破壊して国家主義的近代体制にしてしまったのは、他でもない、先に述べた明治維新政府なのである。


本書は、江戸期の民衆自治の思想家の言説を発掘し、特にその経済思想に焦点を当てている。民衆自治経済は、経済と道徳を一体化したものとしてとらえ、共同体の相互扶助組織として「無尽講」「頼母子講」「もやい」などの「講」を発展させた。「講」とは、民衆自治金融機関であり、いわば、民衆銀行ともいえるものである。この思想的背景に著者は、富永仲基、三浦梅園、安藤昌益などの町民・農民思想家をとりあげて分析を加えているが、強調したいのは、本書でも多くのページを割いて詳述されている二宮尊徳の思想である。二宮尊徳と言えば、小田原出身でありながら、私たちの栃木県に縁の深い農民思想家である。しかし、戦前からの国家主義的に捏造された「尊徳イメージ」により敬遠され深く論じられてきたとは言い難い。尊徳というと、あの小学校などにあった(る)「薪を背負って読書する銅像」のイメージしかないという人も多いのではないだろうか。
実は、尊徳は、上記の印象をはるかに超えて、これからの日本の未来に指針を与えるユニークな農民・民衆知識人として屹立しているのだ。尊徳は、神道・儒教を批判的に取り入れ、それらを仏教思想において重層的に統合化している。自然との一体感を実践する「徳としての労働」。共同体と異質な異論反論の意見をぶつけ合うことにより「合議」に導き、それを記録して、共同体の存続を担保する討議の方法「芋こじ」。共同体の経済計画としての「仕法」、そして共同体生産の結果は、自然から与えられた恵みを、相互に助け合うための分配分として経済計算していく「分度」などの実践的方法として結実している。


 我々は、明治近代以来の「富国強兵」、戦後は「経済成長」のスローガンに毒され、経済とは、単なる自己的利益のことを追及することだとすっかり洗脳されてしまった。しかし、ここで、尊徳の「報徳」の考えを現代に生かすことによって、その「洗脳」から思考を解き放ってほしい。根本にあるのは、経済と道徳は一体化したものであり経済とは困った民衆のためにあるものである、ということである。
 いま、とちぎVネットの事業(関連活動も含めて)にある、「フードバンク」や「子ども食堂」は、尊徳の思想の現代版といえるかもしれない。本書では、尊徳の思想と田中正造との関連についても後半部で少し触れられている。郷土の大先輩として「世界的思想家」二宮尊徳と田中正造の名のあることは、私たちもおおいに誇りにしてよいのではないだろうか。

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