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「月刊ボランティア情報2011年9月号」 市民文庫書評 『市民科学者として生きる』高木仁三郎著 岩波新書 定価700円+税

「月刊ボランティア情報2011年9月号」 市民文庫書評
『市民科学者として生きる』高木仁三郎著 岩波新書 定価700円+税

                          評者 白崎一裕

福島第一原子力発電所事故後の脱原発の世論の高まりの中で、あらためて、高木仁三郎さんのお名前を見聞きすることが多くなった。高木さんは、チェルノブイリ原子力発電所事故を直接の契機として高まった1980年代後半の「反原発運動」のリーダーとして活躍した核化学者である。明晰な論理と冷静な態度で原発推進派からも敬意をもってみられていた。その高木さんが亡くなられて10年余が過ぎようとしていたところで、彼がもっとも危惧していた炉心のメルトダウンを伴う原発事故がおきてしまった。泣き虫の評者は80年代の前半に高木さんを囲む小さな科学論の勉強会に参加していたことを思い出すとどうしても目頭が熱くなってしまう。あのときに、もっと高木さんに学び、どうして原発をとめられなかったのか?という後悔の感情も同時に湧いてくる。その後悔の念を超えて、いま再び高木さんに学ぼう。

「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」高木さんは、この宮沢賢治の言葉に出会い、そして、自らの思想の糧とした。高木さんは、大学の研究者の職を辞め、原子力資料情報室という市民団体の設立にかかわりその事務局長の立場にあった在野の科学者となる。

「市民科学者」という言葉は、賢治の思想を深めた在野の科学者としての活動の到達点である。一口に科学と言っても、それは「アカデミズム科学」「産業化科学」「市民科学」の三つに区分される。科学研究の成果が学者(アカデミズム)の身内の評価で定まるのか、それとも、経済・産業界の評価で定まるのか、それとも、民主主義を成熟化しようして自覚的に行動する市民によって評価されるのか。この最後の市民の評価にこたえる科学を志向するのが「市民科学者」だ。こんどの原子力発電所の事故でも、マスコミなどで、多くの科学者・専門家といわれる人々が発言をしていた。しかし、それらの発言は、本当に信頼に値するものなのか?電力会社の都合のよいことしか言っていないのでないか?という疑問を持った人も多いだろう。

アカデミズム科学や産業化科学ではこの疑問には答えられない。疑問を払しょくするためには、ひとりひとりの市民が尊厳と希望をもって生きていくための指針となるような科学研究の成果が必要なのだ。高木さんは、反原発運動を展開する地方の市民・住民と共に運動を闘う中で、市民科学の実践を試みてきた。その市民・住民の生き方や志が科学研究に反映されるとき、そこに!市民科学者は存在する。高木さんは、この市民科学の営みを後輩たちにつなぐために市民科学者を育てる「高木学校」を設立した。いま、フクシマ後の世界で、ひとびとがささやかな希望の光を見出すための提言を、高木学校の卒業生たちが語り始めている。評者も活動する領域は違うが、この市民科学者の思想を息絶えるまで受け継いでいこうと思う。

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