発達障害でうつ病で機能不全家族育ちだけどなんとか生きてるアラフォーです。その2

こんにちは、ロディです。

発達障害 + うつ病 + 機能不全家族育ち のトリプル役満ですが、なんとか生きています。

今回は私の人生の中で辛かった時期ベスト3に入る、中学生時代について書き綴りたいと思います。

私が通った中学校は、ピリピリとした緊張感が常に張り詰めていて、とても息苦しい居心地の悪い中学校でした。
まるで軍隊のように教師が生徒を管理しようとし、何かあると平気で怒鳴ったり高圧的な態度で萎縮させる教師がとても多い学校でした。
私はそのような張り付いた空気に人一倍過敏なので、私にとって学校は安全ではないストレスフルな場所でした。

中学2年生が終わる頃までは何とか耐えることができていたものの、3年生になった頃から、そのストレスにより学校に適応できない状態になってしまいました。
当時、病院には行っていませんが、今思えば適応障害だったと思います。

また、この学校の異質な習慣がひとつあって、やたらと集会が多かったです。
毎週行われる学年集会、何かあるとすぐに全校集会、その他にも中総体の応援練習や、(めちゃくちゃ音楽に力を入れている学校だったため)合唱練習などで、その都度体育館に生徒を集めては平気で1~2時間ぶっ続けで閉じ込めるのです。

この「数時間トイレに行けない空間に閉じ込められる」という状況から心因性頻用を発症してしまいました。
(これも当時は病院に行っておらず、おとなになってからそういう病気があると知りました。)

「トイレに行けない」という状況を意識すればするほど「トイレに行きたくなったらどうしようという思いで頭が埋め尽くされる」「数時間の集会の中で少しでも尿意を催すとパニックになってしまう」という状況です。
パニックになると言っても、パニックになっているのは脳内のみです。
体は集会中じっと座って我慢して、早く集会が終わるのを祈りますが、そもそも終わる時間が明確ではないので、いつまで我慢すればいいのかも目処がつきません。

ものすごいストレスがかかりながらも、何とか集会が終わるまで耐えられることがほとんどなのですが、たまに我慢ができないときがあります。
そのときは地獄の恥ずかしさです。
数百人が体育館で体育座りをしているなか、何の脈絡もなく立ち上がってトイレに行けば確実に注目を浴びます。
内向的な私にとってこれほど耐え難いことはありませんでした。

また、トイレを我慢するあまり、実際にお腹が痛くなったこともあります。
いつ終わるとも知れない集会の中で、お腹を圧迫する体育座りをさせられていて、あるとき私は我慢できなくておならをしてしまったことがあります。
当然、音で周りの生徒には分かられてしまい、クスクスと笑われてしまいました。
それが本当に死にたいくらい恥ずかしくて、「トイレに行けない状況自体が」トラウマになってしまいました。

これが何を意味するかというと、授業中の50分間もトイレに行けない状況なので、「トイレに行きたくなったらどうしよう」ということだけが頭の中を支配して授業どころではないのです。

この頃から、集会や授業中にトイレに行きたくならないように、極限まで水分を摂取しないようにしていました。
前日の夕食の味噌汁も飲まず、風呂上がりや寝る前の水分補給は「飲む」ではなく「水を舐めて調整する」でした。
当然、朝も水分になるものは摂らず、給食に出てくる牛乳やスープも口をつけませんでした。

今思えば狂気の沙汰でした。
よく脱水症状にならなかったなと思います。

また、学校では、尿意があろうとなかろうと、休み時間ごとにトイレに行くことが習慣になりました。
授業の前に少しでも溜まっている尿があれば出したかったためです。
しかし、この休み時間ごとにトイレに行くという行為がいじめっ子の目に触れて、トイレで待ち伏せされてからかわれるようになりました。
内向的な性格の私は言い返すこともできず、ただただストレスを溜めていくばかりでした。

これらが原因で学校に行きたくなくなり、登校前に自宅のトイレに閉じこもって籠城することが多くなりました。

ここで我が家の機能不全家族っぷりが発揮されます。
母親は「私の子どもが不登校になるなんてあり得ない。世間様に顔向けできない」という考えしか持ち合わせていない人でした。
さらに、支配的な態度やヒステリックな態度でとにかく我を通そうとする人でした。

私としては、親に「どうして学校に行きたくないのか、行けないのか」について、心に寄り添ってヒアリングしてほしかったのですが、私の母親はそういったことは一切なく、私がトイレで籠城していると「いつまでトイレに篭ってんだ!!」「遅刻するぞ!!」「さっさと出てこい!!」「学校にいけ!!」とヒステリックに怒鳴り散らすのです。

私にしてみれば、学校に行っても地獄、家にいても地獄で、居場所がないわけです。

私が根負けして学校に行くと、結局、授業中に「トイレに行きたくなったらどうしよう」という心因性頻尿の予期不安に頭が支配されて、授業どころではありません。

母が根負けして学校を休むことになったとしても、その日一日母親は鬼の形相で不機嫌を態度で全面にあらわにします。

そんな落ち着く場所がどこにも無いストレスから、今度は群発頭痛を発症してしまいます。
群発頭痛は、頭痛の中でも相当な痛さで知られ、私の場合は頭痛が始まると本当に目も開けられず、あまりの痛みでうずくまっているしかありませんでした。
そして決まって起床から40分後くらいから痛みが出始めるため、母親には「トイレにこもる作戦から頭痛で学校に行けないという作戦に変わった」と認知されました。
本当に痛いのに。

ここまで書いて分かるとおり、当時の母は私を一人の人間として扱っていなかったように思います。
普通の親であれば、何があって学校に行きたくないのか訊こうとしたり、痛がっていれば症状を聞いて病院に連れていくのでしょうが、そういったこともありませんでした。

ただ、群発頭痛に関しては本当に痛すぎて悶え苦しんでいたので、しばらくしてから母親も本当に痛いんだと気づいたようで(遅いけど)、目の奥が痛いという私の証言を基に眼科に連れて行かれました。

眼科ではたまたまアレルギー性結膜炎が見つかったため、これが原因ではないかということで点眼剤をもらいましたが、実際は頭痛なので、これで治るわけもありません。
結局、中学生時代は、群発頭痛の群発期が過ぎ去るまでただ痛みに耐えるしかありませんでした。

ちなみに大人になってからも群発頭痛が発症しましたが、同僚に「脳神経外科に行ってみては」とアドバイスをもらい行ったところ、一発で群発頭痛の診断を受けて、薬をもらうことができました。
この話を母親にしたところ、「だってあなた当時、目が痛いとしか言わないから眼科に連れて行ったんじゃない、しょうがないでしょ」と言われました。
どこまでも他責思考で謝ること、寄り添うことをしない人。
が、これはまた別の話。

なお、ここまで父親の話が出てきていませんが、父は育児にノータッチだったため、そもそもこういうことが起きていた、ということを知っていたかどうかすらわかりません。
無関心育児丸投げの父と、それを良いことに子どもを自分のしたいように支配しようとする母親、これが我が家の機能不全家族の形です。

学校が合わなくて不適応になり、不登校になりかけたところまでは仕方ないと思っています。
通う学校がどのようなところかなんて、通ってみてから出ないとわからないですから。

ただ、私が心因性頻尿の問題を抱えたときに、親が私の心に寄り添って理由を聞いてくれていれば解決できたかもしれない問題なんです。
それなのに一度も寄り添いもしないばかりか、世間体を気にしてとにかく怒鳴り散らして学校に行かせようとする。

子どもにとって家庭は安全であるべきなのに、学校も家庭も地獄だったので、正直、何度か死ぬことを考えました。
あまりに辛くて。

今思えば、希死念慮がある時点で鬱も発症していたと思います。
こんな状況で死なずに生きてこられたのは、中学3年のときの担任の先生(以降、N先生と表記します)がこの問題に向き合ってくれて助けてくれたからです。

N先生は私の話をきちんと聴いてくださり、保健室登校や集会に出なくて良いことを許可してくれました。
これがあったから完全不登校にならずに済みました。
また、N先生が母親に状況を説明してくださいました。
外面は良い母親なので、担任から聴いた話は素直に信じます。

「あなたがそんなにつらい思いをしているなんて知らなかった。なんでもっと早く言ってくれなかったの」

その後に母が私に言った言葉です。

あれだけ苦しい思いをしているところを見せていたのに、つらい思いをしているなんて知らなかった?

なんでもっと早く言ってくれなかったの?だと?
いやいや、アンタ全く聞く耳を持たなかったじゃないか。

そもそも「なんでもっと早く言ってくれなかったの?」じゃなくて「気づいてあげられなくてごめん」だろ
うちの母親は絶対に自分に非があると認めない。
この期に及んで「早く言わなかったお前が悪い」と言ってくる。

このときは怒りではらわたが煮えくり返りそうだった。

たまたま良い担任の先生に当たったから良かったものの、そうでなかったら恐らく私は自死を選んでいたでしょう。

最終的に、その担任の先生に助けられながら中学校は卒業しました。
そもそも不適応の理由が、「中学校がおかしかったから」なので、卒業と同時に不適応も無くなり、その結果、知らない間に心因性頻尿も治っていました。

これが、私の中学時代がおかしな学校と毒親によってめちゃくちゃにされた話です。

この母親は、この後も、私の人生の要所要所において酷い仕打ちをしてきますが、その話はまた別の機会に書きたいと思います。

今回は、私のトラウマを文字書いて癒やす作業の中で、かなり大事な部分を書き出してみました。

これを誰かに読んで知ってもらうことで徐々に私の中の気持ちが浄化されていけば良いなと思いつつ、今回はこれで終わりにしたいと思います。

では、また次の記事で。

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