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「我が道を行く」(第五回私立古賀裕人文学祭参加作品) 万庭苔子 

私立古賀裕人文学祭、通称古賀コンは、テーマに沿って1時間で書き上げたものを出す、というコンテスト。詳細はこちら。
【第5回】 私立古賀裕人文学祭:募集要項|古賀裕人🐸 (note.com)

五回目のお題は「座右の銘」。なんか小説にするのは難しい感じ……でもまあなんとかチャレンジしてみましたにょ。


  我が道を行く
                              万庭苔子

 「労働」はできるだけしない。座右の銘をあげろと言われれば、みつえはそうこたえるだろう。働かないという意味ではない。生きるためには金は必要だし働くことは嫌いではない。しいて言うなら目的のために動かない、ということになるだろうか。

 たとえばみつえは散歩が好きだ。だいたいあっちのほうに行ってみよう、とかぼんやりとイメージして家を出る。どこに行こうという目的地は決めない。一駅先まで歩いてあのカレー屋に行こう、とか少し先の公園まで行って桜を見よう、とか考えた時点でそれはそのための労働になる。ルートも決めない。いつもは曲がらないほうに曲がる、知らない道を選んで進む。だから気がつけば最初にイメージしていた方向とはまったく違うところに行っていたりもするが、それが楽しい。ほんの数十分歩いただけで、自分がどこにいるのかまったくわからなくなる感覚、これこそが旅だと思う。

 しかし一度出かけたからには帰らなければならない。果てしない流浪の旅にでたわけではなく、ただの散歩である。だからきりのいいところで家に向かう。となると、突然これは労働になる。家という目的地に向かって歩き出したからである。でも帰らないわけにはいかないので、いたしかたない。主義に反するがしかたがない。

 人間にはいたしかたないことも多々ある。主義だけを守り通すことはできない。労働しないという主義だからといってまるっきり働かないでいたら飢え死にしてしまう。ある程度折り合いをつけなければならない。そういうとき、みつえは可能な限りそのプロセスを楽しむことにしている。目的に最短でたどり着こうとするのではなく、その道のりを楽しんでいたらいつのまにか家に着いてました、というのが理想だ。

 しかし世の中の仕組みはみつえの信条と相容れないようだ。なにかといえばタイパとかコスパとかいって、最短で目的を達することがよしとされている。そんなことを言っていたらお金は稼げない。当然だ。よってみつえの生活はつましいものとなる。いたしかたない。

 つましい生活に喜びをもたらすのは散歩と読書である。本を読むことはみつえの考え得る最高の楽しみだ。どこか目的地を目指すのではなく、その道のりを楽しむ。

 今日は初めての読書会というものに参加する。みつえが珍しく知らない人たちとの集まりに出る気になったのは、その日取り上げる作家が、つい先日たまたま読んだばかりで大いに感銘を受けた著作を書いた人だったからである。自分が感じたことを誰かと分かち合いたかった。

 十五人ほどの人が集まり、会が始まった。一人ずつ順番に話をすることになった。事前に言われていたので、みつえはきちんとノートを作って臨んだ。人前で話すことには慣れていない。話したいことをちゃんと話すには準備が必要だった。それは労働ではないか、と言う人もあるだろう。そうではない。なぜならそれはみつえがやりたくてやっていることだからである。そうしたいという気持ちがたぎって、やらないではいられなかったからである。

 自分の番がきて、みつえはノートに従い話し始めた。しどろもどろになりつつも、自分がその作品をどう捉えたか、どういうふうに解釈したかを読み上げる。

 と、突然、

「ちょっと巻いてくれる? 三十人もいるんだから」

 という声が上がった。進行役ではなく、参加者で一番目に話をした若い男だ。

 みつえは驚き、すぐにあやまった。まだメモしてきたことの半分くらいしかたどり着いていないが、先をはしょることにする。頭が真っ白になってしまって、つまり何が言いたかったのか、手短にまとめることができない。もうどうでもよくなって、そこで話を終えた。

 予定通りの時間に読書会は終わった。みつえはそそくさとその場から立ち去る。来るときは目的の場所に必ず時間までにたどり着かなければならないからいたしかたなくバスを使ったが、帰りは歩いて帰ろう。いつもの散歩みたいに、適当に知らない角を曲がって楽しみながら帰ろう。

 歩いているとどうしてもさっきのことが蘇る。「巻いてくれる」と言った人は、どれか一冊について深く話すというのではなく、自分がその作家にいかに人生を動かされたか、どれだけたくさん読んできたか、つまりどんだけ自分がファンなのかというのを強くアッピールしていた。そういうコアなファンからしたら、たった一冊それも初めて読んだようなおまえの解釈など聞きたくない、ということなのだろうか。そういえば「読書会」とは銘打っていたが、課題図書はとくになく、その作家について語る会だったのかもしれない。自分が場違いだったということか。やりなれないことをやってしまった後悔がじくじくと滲み出してくる。

 しかし足を動かしているうちに、その男にだんだん腹が立ってきた。三十代前半くらいか、編集の仕事をしているという男は、いかにもしゅっとした見た目のエリートの休日みたいなおしゃれなカジュアルで身を固めていて、生まれてから一度も挫折などしたことのないような顔をしていた。きっと効率よくなにもかもこなしてここまで生きてきたのだろう。あんな男が本を作っているなんて世も末だ、怒りにまかせて歩いて行く。そもそも定員は一四名、三十人もいるはずはなかったではないか。

 恥ずかしさ、後悔、怒り、自己嫌悪。いろいろなものがないまぜになり、無我夢中で歩き続ける。ふと気づくと、まったく見覚えのない場所にいた。自分が今どこにいるのかわからない。家の方角すらよくわからなくなっている。

 スマートフォンがあるではないか。地図アプリを使えば一発で帰り道もわかる。

 いやいやいや。みつえは激しく首を振る。それだけはダメだ。それじゃあ、何もかも効率優先のあの男と同じになってしまう。

 どこまで歩いても知らない道だった。腹も減ってきたし足も痛い。もうすぐ日も暮れる。でもみつえは自分の道を行く。 〈ここで時間切れ〉

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