見出し画像

<書評>ものまね鳥を殺すのは(ハーパー・リー著)上岡伸雄訳 ― 第5回翻訳者のための書評講座課題 尾張惠子

書評家の豊﨑由美さんを講師に翻訳者たちが書評を学ぶ講座に参加させていただきました。この講座で豊﨑さんから「なりきり書評」というものを教えていただき、かねてよりやってみたいと思っていましたところ、第5回の課題図書の一冊に本書が挙がっていて、あ、これでやるしかないと思い立ったのです。カポーティ大好きで関連する本や映画を漁ってきた身、これでやらずに何でやる。まあ一番のトリガーになったのは、映画『カポーティ・冷血』であります。(好きすぎてDVDで何度も繰り返し観ている。)とはいえ、旧訳『アラバマ物語』は未読でした。映画のほうは2回観て、でもなんとなくすっきりわからないところがあるなという印象で終わっていた。でも本作を読んでから映画を観たら、その背景にあるものもわかっているためか今までで一番感動、号泣してしまった。
そういうこともあって書いたなりきり書評であります。しかしあらためて考えると、カポーティになりきるなんて恐れ多いも過ぎやしませんか。身の程知らずって怖いですねー。

まず講座に提出したもの。みなさんの講評を受ける前のから。

<<BEFORE>>

<書評> 『ものまね鳥を殺すのは』 ハーパー・リー(上岡伸雄訳)
 
 ハーイ、みんな。トルーマン・カポーティだよ。ぼくの幼なじみネルの本の新訳が48年ぶりに出たんだってさ。そう、ハーパー・リー著『ものまね鳥を殺すのは』。これまで日本では『アラバマ物語』ってタイトルだったけどね。米文学史に残る名作、今さら詳しい説明はいらないだろうけど、物語は1930年代のアラバマ州、架空の町メイコムが舞台。そこで弁護士の父と4歳上の兄と暮らす少女スカウトが6歳から9歳になるまでの話で、ネル自身の体験をもとにしている。(ぼくも夏だけやってくる友人として登場する。)1960年に出版され翌年にはピューリッツァー賞を受賞、映画が公開される前にアメリカでは大ベストセラーになっていた。ぼくはその成功を間近で見ていたんだ。その時期ネルはぼくの取材にアシスタントとして同行してくれていたからね。『冷血』というノンフィクションに取り組んでいたころさ。
『アラバマ物語』の映画は観たかい? あれ自体は名作といっていい。黒人青年が被告となった裁判を中心に子どもたちと謎の人物との交流も絡めた感動的な作品になっている。でも試写会の後ネルに感想を求められたぼくは冷淡な態度を示した。周囲はたぶん、ぼくが幼なじみの成功に焦りと嫉妬を覚えていると受けとったんだろうな。実際少しはそれもあったかもしれない。でも「たいした映画じゃない」っていうのは本心だった。原作から多くのものが失われている。奥行き、ささくれ、強烈な匂い・・・・・・。
 小説では陸の孤島のような町の人々の暮らしを細やかに描いている。黒人差別が当然のこととしてあり、白人も何層にも分かれている。貨幣経済から切り離されたような一族やルール無用で放埒に生きる一族など、時に軋轢を抱えながらも静かに暮らしていた町で、黒人青年が白人女性を暴行したかどで訴えられる。黒人の弁護人になったのが父アティカスだ。彼は平等の理念を貫こうとして白人たちの反感を買い子どもたちをも危険にさらしてしまう。でもスカウトは「相手の靴を履き相手の視点で見る」という父の言葉を実践し他者に向き合おうとする。彼女はまた社会が押しつける「女性の型」にも抗う。この作品には「社会で当然とされていること」の理不尽さや不快さが、幼い女の子という弱者の視点で丁寧に描かれているんだ。作品には多くのものまね鳥(ただ歌っているだけで他者には害を及ぼさない)のような存在や「常識からはみ出した」者たちが登場する。善良な黒人たち、ミスター・ブーやドレファス・レイモンド。風変わりな友人ディルも、母を亡くし黒人の使用人が母代わりのスカウトとその兄もはみ出し者と言える。アティカスだって相当はみ出してる。けれどアティカスの信念は現代人の心を強く打つだろう。でもひとつだけ、「アオカケスはいくらでも撃っていい」っていうのはどうかな? ほら動物好きのあの人がカンカンに怒って・・・・・・。(想定媒体 婦人画報、16字x75行、1200字)

<<豊﨑さんや受講生のみなさんからいただいた講評>>
・なりきり書評に果敢に取り組んだ姿勢はよし
・スカウトが「女性の型」にも抗っているという指摘はよい
・あらすじの書き方、時系列で説明しないのがよかった
・旧訳の出版年違っている。Wikiで調べたものだったが、「Wikiを信用しすぎてはダメ。なんでも複数のソースに当たる習慣をつけよ」と豊﨑さん。
・前半、2段落目の終わりまではまあカポーティ目線として読めなくもない、その後、あらすじになってトーンが変わっちゃって普通になってしまった。もっと軽い口調のほうがいいんじゃない?(豊﨑評)
・あらすじのなかに出てくる登場人物の説明が欲しい。読んでない人にはわからない(豊﨑評)
・アオカケスのくだり、誰のことかわからない
・アオカケスのくだり、自分のことを書いたのはわかるし、実際あそこはひっかかった。でもカンカンというほどではない(豊﨑評)

 トーンが変わってしまっている点、自分でも自覚がありました。最初好きなようになりきりを楽しんで書いたらどんどん長くなってしまい、というのもなりきりって饒舌体になるからどうしても余計な文字数がいる。でも想定媒体探しても、これ以上の文字数はもらえなさそう。っと悩んで削ったり直したりを繰り返しました。最初に書いたときはあらすじはもういらないか、ぐらいの勢いでカポーティ節(?)全開でやってたんですが、何度も読み直したらやはりちょっとは内容も紹介しないと書評ではないかもしれないと、苦し紛れに少ない文字数で収めようとしたのが後半なのであります。結果、必要な情報は押さえました、という感じの、体裁は整えたつもりだけどおもしろみのない文章になってしまったのです。
 ただ最後のアオカケスのくだりについてはどうしても残したかった。せっかく講座で豊﨑さんに読んでいただくのだから、そこは笑いを取りにいかなければ、と思ったのであります。
 その二つを主にもういちど見直して書き直したのが以下です。
 トーンについてはもっと自由にやりたい気持ちもあります。アオカケスは誰が読んでもわかる文章にしました。

<<AFTER>>

<書評> 『ものまね鳥を殺すのは』 ハーパー・リー(上岡伸雄訳 早川書房)
 
 ハーイ、みんな元気? トルーマンだよ。ぼくの幼なじみネルの本の新訳が59年ぶりに出たんだってさ。そう、ハーパー・リー著『ものまね鳥を殺すのは』。これまで日本では『アラバマ物語』ってタイトルだったけどね。米文学史に残る名作、今さら詳しい説明はいらないだろうけど、物語は1930年代のアラバマ州、架空の町メイコムが舞台。そこで弁護士の父と4歳上の兄と暮らす少女スカウトが6歳から9歳になるまでの話で、ネル自身の体験をもとにしている。(ぼくも夏の友人ディルとして登場する。)1960年に出版され翌年にはピューリッツァー賞を受賞、映画が公開される前にアメリカでは大ベストセラーになっていた。ぼくはその成功を間近で見ていたんだ。その時期ネルはぼくの取材にアシスタントとして同行してくれていたからね。『冷血』というノンフィクションに取り組んでいたころさ。
 映画『アラバマ物語』は観たかい? あれ自体は名作といっていい。黒人青年が被告となった裁判を中心に子どもたちと謎の人物ミスター・ブーとの交流も絡めた感動的な作品になっている。でも試写会の後ネルに感想を求められたぼくは冷淡な態度を示した。周囲はたぶん、ぼくが幼なじみの成功に焦りと嫉妬を覚えていると受けとったんだろうな。実際少しはそれもあったかもしれない。でも「たいした映画じゃない」っていうのは本心だった。原作から多くのものが失われている。奥行き、ささくれ、強烈な匂い・・・・・・。
 小説では陸の孤島のようなメイコムの人々の暮らしを細やかに描いている。あの頃の南部で当たり前だった黒人差別、白人だって貧困層もいれば宗派の分断もある。その町で黒人青年が白人女性を暴行した咎で訴えられた。黒人の弁護人になったのが父アティカス。この裁判の様子がじつに白人社会の差別意識の凝縮って感じで、感受性の強いディルは泣き出してしまうほどだった。でもアティカスは平等の理念を貫こうとする。それが白人たちの反感を買って、兄ジェムとスカウトを危険にさらしてしまうんだけど。でもスカウトは「相手の視点に立て」というアティカスの言葉を実践して他者に向き合おうとするし、社会が押しつける「女性の型」にも抗うんだ。この作品には「社会で当然とされていること」の理不尽さや不快さが、幼い女の子という弱者の視点で丁寧に描かれているんだ。作品には善良な黒人たちやミスター・ブーの他にも何人かのものまね鳥(歌っているだけで害を及ぼさない存在)や「常識からはみ出した」者たちが登場する。スカウトはもちろんディルだってかなり異質だ。アティカスだって当時の常識からは相当はみ出してる。けれどこの本を読んでみれば、彼の信念が分断や紛争の広がる現代においてこそより強く求められてるってわかるんじゃないかな? ただひとつ「アオカケスはいくらでも撃っていい」っていうのを除いてね。
 (想定媒体 婦人画報、16字x75行、1200字)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?