「理想の日曜日」 万庭苔子
冷蔵庫はからっぽだった。非常時のために買い置いたはずの冷凍ピザもない。ちくしょう、この前食っちまっていたか。
三日の予定で旧東独地域へ鉄道の旅に出ていたのだが、列車のキャンセルや遅延、乗り継ぎ便の大混乱で、帰宅したのは昨夜深夜になってからだった。さすが悪名高きドイチェバーン、噂に違わぬ劣悪ぶりを実際に体験できたのは得がたいことかもしれないが、とりあえずの目下の問題は今日の飯をどうするかである。なにせ今日は日曜日だ。スーパーはもちろん、ほとんどの商店は閉まっている。開いているのは花屋ぐらいのものだ。日曜は安息日、働いてはいけない日なのである。家族と一緒に家でゆっくり過ごすのがこの国の理想の日曜日だ。花屋が開いているのは、家族や友人の家を訪れる時に花を持参するのが礼儀とされているからだろう。
とはいえ、カフェや飲食店は開いている。駅前まで行けば何か食べられる店があるはずだ。三十分ばかり歩いて田舎の駅前のしょぼい繁華街へ出た。まともなレストランはイタリアンくらいだが、一人でレストランで飯を食う気はない。カフェや軽食の店がいくつか開いている。ソーセージの形をした看板を出した店の前では、何人ものドイツ人たちがこの寒いのにビールを飲みながら、ケチャップとカレー粉のかかったソーセージを食べている。カレーブルストはベルリンが発祥というので、旅行中にずいぶん食べていてもう飽きていた。それにあそこは前に入ったとき、焼いてからだいぶ時間の経ったソーセージを出されて、もう信用していない。
少し歩くとケバブ屋があった。カウンターの向こうでは、巨大な糸巻きみたいな形をした肉がぐるぐると回っている。テーブルには、注文が出てくるのを待っているらしい白人の男性の二人組が、つまらなそうな顔をして座っていた。
もう空腹が限界を迎えつつある。店が閑散としているのは田舎だからしかたない。ガラス戸を押して、店に入る。カウンターのなかにいる、黒髪で黒い瞳のアラブ系の顔をした男性が、ちらりと顔を上げてこちらを見た。とりあえず壁にずらりと並んだカラー写真のなかには、見慣れたケバブサンドはなかった。よくわからないが、パンに肉と野菜が挟んであるらしいものを頼む。ソースは何にするかと訊かれたようだが、よくわからない。首を傾げていると、「シャーフ(辛い)?」と訊かれたので頷いてみせる。
「ヒア・エッセン(ここで食べる)」と言って注文を済ませると、窓の傍のテーブルに輿を降ろした。飲み物は冷蔵庫のなかから勝手にとってきてあとで精算するスタイルらしい。ビールはない。アラブ系だからしかたないのだろう。炭酸水を一本とりだしてキャップを開けた。
しばらくして店員に呼ばれた。今注文を待っているのは自分しかいない。だがカウンターの上の皿に載っているのは、予想したものと大分違う。なにより巨大すぎる。日本でケバブといえば両手で持てば楽々食べられるようなものだったはずだ。それにパン。日本で食べたのは薄い生地のピタパンに入ってた。ところが今目の前の紙皿に置かれているのは、分厚くてごつごつした固そうなパンだ。それにこれでもかというほど大量の肉と野菜が詰め込まれ、大量の白っぽいソースがあふれ出ている。
どうやって食べたらいいんだ、これ。見慣れない形の、巨大な食べものを前に躊躇していると、入り口の扉が開いて、大勢の若者がどやどやと入ってきた。アラブ系かトルコ系なのか、みな黒っぽい髪色をしている。
分厚いパンを潰すようにして、巨大なサンドイッチにかぶりついていると、ふいに声をかけられた。
「ショーゴ!」
驚いて振り返ると、黒い巻き毛と濃い眉毛の青年がニコニコ笑って片手を挙げている。語学学校で同じクラスにいるナディムだった。
「ショーゴ、この前休んでたね?」
「旅行に行ってた。昨日の夜、帰ってきた」
ぼくらは片言のドイツ語で話す。他のクラスメイトはどんどん話せるようになっていくのに二人だけ落ちこぼれているから、なんとなく連帯感がある。
どこに行ったか、訊かれるままに話す。
「ナディムは? 何してたの」
一緒に入ってきた人たちは知り合いらしく、一人がナディムに何を頼むかと訊きに来た。
「デモに行ってきたんだ」
言われて見回すと、何人かは旗やプラカードのようなものを手にしている。
「ガザのため」
ナディムが言った。
「大丈夫なのかい?」
ぼくは訊ねる。ナディムは永住許可を取るために語学学校に通っているはずだ。
「なぜ? この国では、デモの権利、認められてる」
そうなのか、とぼくは言う。でもドイツ政府はイスラエルを支持してることぐらい、ぼくのつたないドイツ語でもわかっていた。
「次はショーゴも、来いよ」
ナディムは黒々と長いまつげに縁取られた目を細めて、仔犬のような黒い瞳でぼくを見つめた。
「そうだな、考えておくよ」
ナディムが仲間に呼ばれて、ぼくらはそこで別れた
〈了〉
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