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新実在論について

新しい実在論
Aさんが京都にいて比叡山を見ているちょうどその時に、わたしたち(この話をしている私と聞いている、読んでいるあなた)は滋賀にいて同じ比叡山を見ているとします。
このシナリオに存在するのは、Aさん(京都)から見る比叡山、わたしたち(滋賀)から見る比叡山ということになります。
形而上学の主張によると、このシナリオに存在している対象はたった一つだけです。すなわち比叡山です。比叡山は比叡山。どこからに見られようが、誰に見られようが全く問題にしません。これが形而上学です。
これに対して、構築主義は、三つの対象が存在しています。Aさんにとっての比叡山、わたしにとっての比叡山、そしてあなたにとっての比叡山です。これらの背後には、現実の対象など存在していない。あるいはそのような対象をいずれ認識することは、わたしたちには期待できないということです。これにたいして新しい実在論の想定によれば少なくとも以下四つの対象が存在しています。
1比叡山
2京都から見られている比叡山(Aさんの視点)
3滋賀から見られている比叡山(私の視点)
4滋賀から見られている比叡山(あなたの視点)

なぜ新しい実在論が最良の選択肢なのか。
比叡山とはXであるということ、これだけが事実なのではありません。
京都からは比叡山がこんな風に見えるのが、滋賀からは全く別様に見えるということ、これも全く同じ権利で一つの事実です。比叡山を見る時わたしたちが感じていながら表に出さないさまざまな感覚もすべて事実です。
わたしたちの思考対象となるさまざまな事実が現実に存在しているのはもちろん、それと同じ権利で、それらの事実についてのわたしたちの思考も現実に存在している、ということなのです。

形而上学は現実を観察者のいない世界として一面的に解し、構築主義は現実を観察者にとってだけの世界として一面的に解し、いずれも十分な根拠なしに現実を単純化しています。ところが、わたしたちの知っている世界は常に観察者のいる世界です。この様な世界の中で必ずしもわたしたちには関係のないさまざまな事実が、私の抱くさまざまな関心(知覚、感覚)と並んで存在している。

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