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ダークペタゴジーについて

 福井県の中学校で2017年3月に起こった男子中学生の自死事件は社会に衝撃を与えた。事件を調査した第三者委員会は、担任教師が自死した生徒に対して、周囲の生徒が身震いするほどの罵声を浴びせるなどの指導法をしていた事実を明らかにした。そうした担任や副担任の長期にわたる「行き過ぎた指導」を自死の原因と認定した。2017年9月には、大阪府の公立高校に通う女子生徒が、生まれつき茶色の髪を黒く染めるよう何度も強要されたことで精神的苦痛を受けたとして、府を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。新聞報道によると、文化祭や修学旅行への参加を認めないなど、4日に一度の頻度で指導を受けたことで女子生徒は過呼吸を起こすようになり、不登校を余儀なくされたという。2018年には日本大学アメリカンフットボール部の選手が「相手チームの選手をつぶせ」と言う監督とコーチの指示に従い、相手選手に危険なタックルを仕掛けて負傷させた事件が大きな問題になった。加害選手が謝罪会見で語った内容によれば、当該選手は試合や練習への参加を禁じられたばかりか、日本代表チームへの参加を辞退するように命じられるなど、選手生命を脅かされる指導を受けたことで精神的に追い詰められ、加害指示を拒否できなかったとのことである。
 これらの事件に共通しているのは、不適切な教育目標を達成するために、教師や指導者によって過酷な指導方法が用いられていたという点である。この種の問題を考える際の有効な概念として「ダークペタタゴシー」が挙げられる。
ダークペタゴシーは、他者の成長や価値観、知識獲得に介入するための後ろ暗い方法論を指すもので、ドイツの評論家K・ルチュキーによって1977年に命名された。具体的には暴力・うそ・ごまかし・賞罰・欲求充足の禁止・条件付愛情・心理操作・監視・無視・屈辱などを用いたしつけや指導が当たる。
 倫理問題を孕むダークペタゴシーだが、いたずらに問題化されることへ懸念を抱く読者もいるだろう。教育現場からは強制や管理に頼らざるを得ないという苦悩の声が聞かれる。指導方法の問題性だけに注目が集まることで、教師たちがリスクの高い指導を控え、子ども同士いじめや非行を放置することにつながるのではないか危惧を持つ人もいるだろう。「子どもには叱られる権利がある」という意見もある。いずれも傾聴すべき意見である。では、どのようにダークペタゴシーに向き合えばいいのか。

まず、ダークペタゴシーの例をいくつか挙げたい。
 代表例のひとつと言えるのが、衆人環視の状況で教育対象者の非を責める「公開叱責」である。中でも、公開の場で子どもに強い恥辱を与える人格攻撃や謝罪要求は、俗に「公開処刑」と呼ばれて恐れられている。評論家の荻上チキ氏らが2018年2月に実施した調査によると、中高生の頃に「教師から人前で強く叱責された経験がある」と答えた10代の割合は、中学時代で11.4%、高校時代では13.3%に上がっている。(「ブラック校則」荻上チキ・内田良)時には、学級委員長や部長のような責任者、道化キャラ、いじめられがちな生徒を選んで「見せしめ」のために叱責が加えられている場合もある。例えば、2000年に埼玉県で起きた中学2年生の自死事件では、生徒が生徒会の役職者にもかかわらず、校内で休み時間中にチューイングキャンディーを食べたことなどの指導として、保護者を召喚し、生徒に臨時学年集会で決意表明をするように要求した。そのことが、生徒の自死の要因になったとみられている。
 このように一部の生徒を「見せしめ」のために「血祭り」に上げることで、共同体のルールを再確認して集団の結束を強める。この方法を、社会心理学では、スケープゴーディング(生贄のヤギ)と呼ぶ。原始的な恐怖支配術である。
 教員経験者が出版するハウツー本の中には、これらの手法を「効果的な教育方法」として推奨する場合がある。確かに、公開叱責は、社会的学習理論で指摘されている通り、叱られる本人だけでなく、叱られている場面を目撃した周囲の子どもの問題行動を抑制する効果も期待される。しかし、社会学者の土井隆義・筑波大学教授が言うように、現代の子どもは、他者からの肯定的評価渇望しながら、不安定な関係の「友達地獄」を生きている場合も少なくない。
 そうした場での「公開叱責」は、叱られる本人だけでなく、叱られる場面を目撃する生徒にも想像以上の苦痛や不安を与える。「悪者には何をしてもよい」という偏った倫理観が刷り込まれる問題も考えられる。そして、発達障害に起因する遅刻や忘れ物などには効果が乏しいようだ。
 国立教育政策研究所が2006年に出した「生徒指導体制の在り方についての調査研究」の報告書では、懲戒の際の配慮すべき点として「感情的であったり、他の子ども達への見せしめであるような処分ではないこと」と明記されている。子どもの権利条約第28条第項の「学校規律に行ける子どもの尊厳の保護」に違反する可能性もある。安易な「公開叱責」は避けるべきであろう。
 そもそも、このようなダークペタゴシーが蔓延する要因となる生徒の「悪行」はどの例を見ても大して「悪くない」。髪の毛の色やチューイングキャンディーを食べるという行為、たかがアメリカンフットボールというスポーツゲーム、どれもそこまで指導するようなことではない。教師がそれでも生徒を指導しようとするのはなぜだろうか。ダークペタゴシーを行う教師自身の使命感や教育的情熱によるものだろうか。おそらくは、髪の毛の色、学校での飲食、部活動での成果などの「大したことのない教育成果」を追い求める「ずれた教育観」が教育現場にはびこっているという視点も持っておきたい。


 万引き、喫煙、いじめなどの問題行動に対する指導で重要な達成目標になるのが「生徒の反省」である。反省を深めることは罪を償うためではなく、同じ過ちを繰り返されないために自分を見つめ直し、問題行動の原因を取り除くためにも重要である。
 生徒の反省の深まりを知ることは現実的に厳しく、生徒の態度から類推する他ない。そのためか、反省指導の中には、脅迫や懲罰に頼ることで生徒を萎縮させ、「形だけの反省」への拙速に帰着させている場合が少ないと見受けられる。例えば、一般的な反省指導の方法に反省文がある。反省文指導が常に理不尽で無効というわけではない。反省文を元にした教師との対話の中で生徒の反省が深まることは十分にあり得る。しかし、単に格調高い反省文を書かせる形式的な指導に堕していることも案外多いものである。しかも内容が不十分な場合に「反省が足りない」と突き返すばかりで、どこをどのように深めていけばよいのか教えないこともある。
 インターネットで検索すれば、そうした無軌道な反省指導に困り果てた生徒がQ&Aサイトで「正しい反省文の書き方」の紹介をしてもらうログがたくさん見つかる。
 口頭での反省指導でも、かつて連合赤軍が「総括」と称したような、過酷な脅迫的な指導が用いられがちである。「なぜ怒られているのか言ってみろ」と自己批判を要求する。生徒が思いつく限りの自己批判をしても「分かっていない。だからお前はダメなんだ」と自己批判の不徹底さを指摘され続けるのである。
 指導は、宿題忘れや遅刻のような具体的な問題行動のみならず、だらしのない人格批判にまで拡張していく。望ましい反省の基準や問題解決への具体的助言もなく、延々と自己批判ばかりが強制される。
 こうした指導は、問題の原因を分析して再発を防止するという科学的な指導はない。犯した罪に対する応服罰を科して精神的に痛めつけるものだ。「もう二度とこんな思いはごめんだ」「自分はダメな人間だ」と思い知らせる「マウンティング」である。
 生徒側の反省プロセスを無視して圧力ばかりを強めると、生徒は反省の手掛かりを失う。「反省的な態度」を整えることに終始した挙句、同じような過ちを繰り返すことになる。教師がそれに失望を感じて懲罰的指導を強めれば、指導はいっそう悪循環に陥っていく。
 生徒指導案件に対して、必ずと言っていいほど実施される指導法「反省文」多くの学校、教員が指導経験があるだろうが、形式的な記述内容、反省している態度のみを判断材料に指導を終えてはならない。生徒はたかが「反省文」であっても恐れるものである。恐怖は深い思考を妨げる。そんな指導では、本来の教育目標は達成できない。「反省文」は教師の指導へのレスポンスという形で捉えてはいけない。生徒には何が悪いのか、どうして悪いのかをきちんと教えることが大切である。教えることなしに、指導(なんらかの懲罰を与え反省を促すこと)をするのでは教師には何ができるのだろうか。

 文科省が把握する体罰被害の児童生徒の割合は、およそ千人に一人である。体罰を受けた経験がる生徒の割合は「軽く叩かれた」が6.3%、「強く叩かれた」は⒋4%に上り、文科省との差は約50倍になっている。体罰はなぜこれほど隠蔽されるのだろうか。
 説明の一つとしてあり得るのは、報復や追放を恐れて告発を断念する「恐怖支配」が機能している点である。被害者が誰かに相談しても告発につながりにくいとの指摘もある。
 部活動での体罰被害経験者に「なぜ体罰を問題にしなかったのか」と尋ねると、「試合でミスをして皆んなに迷惑を掛けたので、殴られるのは当たり前だと思った」「長時間叱責されたり、レギュラーから外されたりするよりは、殴られた方が楽だった」「殴られている分、目をかけてもらっていた」など、体罰を合理化する理由を挙げることが多いのである。
 体罰に限らず、ダークペタゴシーが機能する場で頻繁に見られるのは、特殊な価値観である。一般社会では、瑣末なことが非常に重大な問題として扱われ、他方で暴力や暴言が非常に瑣末であるかのように扱われるものである。
 社会学では、恣意的な価値観を正当なものとして教え込むことを「象徴的暴力(シンボリック・バイオレンス)」と呼ぶ。「試合でミスをしたら殴られて当たり前」「殴るのは愛の証」というのは、「象徴的暴力」の一種である。心理的支配を通じて身体的暴力を教育に用いることが解禁されているのである。心理的支配を可能にする方法の一つに挙げられるのが「ガスライティング」という手法である。ガスライティングは、被害者の正常な常識を加害者の異常な「常識」で上書きする心理的支配法だ。例えば、体罰教師は、殴られる時、その妥当性を切々と訴え「私もできれば殴りたくない」「殴られるより殴る方が痛い」などと悲嘆に暮れながら殴ることがある。このご時世にあえて体罰を振るうことで「捨て身の献身」を演出することもある。
 時には、教師が生徒の失敗を予見しながら予防的な対応を取らなかったり、あえて失敗したりするよう仕組む。その上で、「だから言っただろう」などと言って指導の好機にする場合もある。 
 その結果、子ども「自分の判断は信用できない。先生の言うことが常に正しい」という心理的依存状態に陥れば、告発はますます困難になる。

 日本社会の至る所で「しごき稽古」が用いられる。野球の「千本ノック」や「走り込み」バレーボールの「マンマンレシーブ」のように、非常に身体的負荷の掛かる動作を延々と繰り返す特訓。寝る時間がないほどの宿題を課す「スパルタ学習法」。宿泊型の新人研修で泣くほどの人格否定をする「ブラック新人研修」などだ。限界を超えた練習を課し、平手打ちなどの身体的暴力を加えることなどもある。
 スポーツや受験勉強、礼儀作法学ぶ際に「下手をすると殴られる」という緊張感の中、必死に努力して熟達を遂げるケースは確かに存在するだろう。暴力から身を守る以外考えられなくなり、目標達成に向けて必死に努力する。それにより、それなりの「成果」が出やすくなる。これにより「結果オーライ」で正当化されがちである。
 戦場の兵士のように、長期間にわたって痛みや恐怖、緊張にさらされて「度胸」が身につく場合があるかもしれない。心身に強い負荷が掛かる訓練をし続けると、疲労や苦痛、恐怖を和らげるための脳内麻薬が大量に放出される。すると、これまでの限界を超えた活動が可能になる場合がある。指導者のちょっとした優しさに感動しやすくなったり、訓練後に強い充実感を感じたりすることも起こる。これらは、カルト教団が信者を洗脳する際によく使う手法である。
 そうした「成果」の陰で見過ごされている問題も多い。無理な指導で心身を壊したり、指導についていけず戦力外通告を受けたりする人もいる。指導に理不尽さを感じて離脱する人も出る。戦地から帰還した兵士の犯罪率や自殺率は高い。暴力的指導に耐え切った人の中にも心身に一生残る傷を受ける者が現れる。
 しごきをくぐり抜けて名誉あるポジションを獲得した成功者だけを見ると、しごき指導の「成果」は出ていると見えるかもしれない。ただ、その陰には、多くの犠牲が隠れている。
 暴力的指導者は「これこそ教育」と自負するが、実際には「選抜」の機能を果たしている部分が大きいのだ。心理学ではこれを「生存者バイアス」という。思い通りに育たなかったケースは本人の努力不足のせいにして、うまくいった部分だけを自分の手柄にするのはフェアではない。
「途中で逃げ出すような者は意気地がない、足手まといだ」と言うかもしれないが、途中でやめることは勇気が必要だ。仮に、意気地がないとしても、そういう者をしっかりと成長させるのが真の教育だ。

 

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