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「教えること」「学ぶこと」

 教育は広範囲にわたる営みである。筆者は、「教えること」と「学ぶこと」とは教育の中核であり、この両者は、学校教育で重要な要素だと考えている。
 1990 年代からゆるやかに始まったとされる教育改革について、佐藤学は次のような見解を示す。 少々長くなるが引用する。 

欧米の各国やわが国で授業の改革が緩やかに、しかし深く進展している。授業の改革はこれまで何度も推進されてきたが、今進行している改革は、もっと根本的で根源的である。その変化を 「教師中心」から「子ども中心」と表現するのも、「教え」中心から「学び」中心へと表現する のも、「伝達・説明」から「支援・援助」へと表現するのも、すべて現在の改革の一面を示してはいるが、その根源性を表現するものではない。近代の学校を特徴づけてきた画一性と効率性を 二大原理とする授業のシステムと「教え」と「学び」の関係と構造そのものが問い直され、新た に解体され再編されようとしているのである。「教師」の捉え直し、「子ども」の捉え直し、「教え」の捉え直し、「学び」の捉え直し、「教材(知識と素材)」の捉え直し、「教室(環境)」 の捉え直し、および、それらの相互関係の捉え直しが遂行されており、変化はまさしく根本的で根源的である。

佐藤は、「教える」ことや「学ぶ」ことなどについて、相互関係の根源的な捉え直しが進んでいることを強調している。特に、佐藤の「学びの共同体」論を中心にした教育実践は、多くの成果が蓄積されてきている。しかし、この引用箇所では直接的な表現は見当たらないが、佐藤の主張を俯瞰して見てみると、佐藤は、教師が「教える」ことを排しているように見受けられる。このような論調が増えるほど、「教える」ことの立場は弱くなるのではないだろうか。「学ぶ」ことに優位性が与えられ、教育現場は「教える」ことではなく「学ぶ」ことを尊重し始める。つまり、佐藤の主張では、学習者である子どもが「学ぶ」ことは、教師に「教えられること」と対比的に用いられているためである。 

一方、市川伸一は、1990 年代に起こった学力低下論争を踏まえ、「教えずに考えさせる授業」を批判し、「教えて考えさせる授業」を提唱している。市川の論考を概観すると、市川の批判は、佐藤の 「学び」論を射程には入れていない。しかし、筆者は、佐藤の「学び」論に見られる教育実践は、市川のいう「教えずに考えさせる授業」に近いものがあると考えている。 佐藤と市川の両者が直接的に対立していることがわかる文献や、相互の批判等は、管見では見られ ない。しかし、「教えること」と「学ぶこと」が対比的に捉えられやすい現状では、佐藤が排する「教える」ことと市川が重視する「教える」ことはいつまで経っても交じり合わず、平行線を辿るままである。すべて、一元的な考え方で教育を行うことが「よい」と考えてはいないが、「教育」 という「『よく』なろうとするこどもを『よく』しよう」とする営みから考えたとき、進み過ぎる「分化」は望ましくないと考えるのである。 村井は、教育学が「人間を『善く』する活動についての研究」であることの自覚を失ったあらゆる研究の拡大を憂慮し、次のように述べる。

私は、今や、おそらく他の諸科学のすべての場合と同様、だが教育学においては特に、研究の強力な統合への試みが必要であると思う。しかも、それは、すでに専門分化してしまった研究者や研究領域の間での単なる協力や総合以上のものでなければならない。むしろ、「教育」の研究が私たちにとって何のためにあるのかが基本的に反省され、吟味され、その反省と吟味の上に立って、すべての研究が、人間にとっての教育学として統合されえなければならないのである。人間のための教育学としての専門領域間の「統合」だけに留まらず、研究成果の「統合」という動き も必要になろう。「教えること」が「教え込み」にならずに機能するための条件をあげると、次の三点になろう。第一に、教師が「強制的教授」から「主体的学習」への接続の見通しを持ち、接続のデザインを描くことである。主体的学習そのものへの志向がない「強制的教授」は、一方的な「教え込み」となる危険性が高い。第二に、「強制的教授」が行われる理由は、あくまでも「主体的学習で必要であるため」という共通認識を教師と学習者が持つことである。これは、第一の「主体的学習への接続」を志向したことを前提にしている。学習者にとって「必然性が感じられない学習」は苦役に等しいはずである。第三に、学習者の「興味・関心を引き付けること」と「学習意欲を削がないこと」(学習意欲を喚起すること)である。これらから、「教えること」が機能する条件は「対話」が成立する条件と近似していることがわかる。ここで用いる「対話」とは、「目的意識」「事意識」「相手意識」によって成り立つ双方向的コミュニケーションのことである。


つまり、「教えること」は、学習者の「興味・関心」に配慮しつつ(相手意識)、「学習そのものの面白さ」を体験させ、学習意欲を喚起させ、主体的学習へ導くために(目的意識)、教科の内容を工夫する(事意識)ことで機能するといえる。教室での教授学習では、学習者が学習への「目的」や「必要性」または「興味・関心」を持っていない場合がある。この場合、いくら教師が「教授」を行ってもうまく機能しないであろう。このような状況は「対話的」とは言い難く、このような学習者の状況に配慮しない一方向性が「教え込み」という形となり、「学習者の学習意欲を削ぐ」→「学習内容に興味・関心が湧かない」→「学習内容が理解できない」→「学習そのものの面白さを体験できない」→「学習意欲が低下する」→「学習から逃走する」という悪循環に陥ると考えられる。

上記では、「教えること」の条件を提示した。この条件を村井の教育観から検討してみたい。村井の考え方は、「学習者は『よく』なろうとしているのだから、教師は手を加えない方がよいのではないか」という消極的な教育論と誤解されやすい面がある。「教えること」と「学ぶこと」を例にあげると、村井の考え方は、教師が「教えること」より子どもが自発的に「学ぶこと」を重視するように捉えられやすいということである。


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