見出し画像

クライミングにおける「スタイル」の議論とWell-Being

最新刊の「ROCK&SNOW」091号。1本の記事がSNSを騒がせた。
「『覚醒』最上部のラインについて」と題された、開拓王こと北山真氏の記事がそれである。

一部を引用してみよう。

きっかけは、ある女性クライマーから編集部に届いた動画だった。
「覚醒を登ったのだがラインに不安がある」とのこと。
さっそくご本人の承諾を得て、室井登喜男に動画を見てもらった。
・・・
スポーツルートにせよ、トラッドにせよ、プロテクションでほぼラインは決まるので、リードの場合は基本的にどこを登ってもかまわない。
しかしボルダーに関しては初登者のラインに忠実に登るのがセオリーだと思う。
もちろん、両手両足を初登者と同じように動かせと言っているわけではないが、覚醒上部の場合は、すでに頭痛という課題があり、それとは別の課題なのであるから、カンテから左には出ないと考えるのがボルダラーとしてのセンスではないだろうか。

この一文をきっかけに複数名の「覚醒」完登は取り消しなのではないか。
という議論が巻き起こった訳だ。

大大前提として、僕はクライミングにおける「スタイル」についての議論ができるほど強くもない。
そんなデリケートで巨大なテーマは他の「語るべき方」に譲るとして、
ここで書きたいことはクライマーの精神世界の豊かさと、Well-Beingについて重なりについてである。

"取り消し"の対象となった宮下 裕樹氏は自身のInstagramにこう綴っている。全文引用してみたいと思う。
https://www.instagram.com/p/CMeyM3vDSVf/

ご存知の方も多いとは思いますが、ロクスノ091号にて覚醒のラインが違うと指摘を受け、編集部の見解で僕以下数名完登取消しとなりました。

【そもそも何故ラインが違ったのか。】

覚醒の下部は頭痛と同じラインを辿り、途中から直登気味にラインを取ります。その後、上部で左カンテに至りトップアウトします。
初登者が当時目指したのは不可能スラブを直登するラインでありましたが、上部でカンテに出るため想定したラインとは違うという葛藤があったようです。

【問題となったスローパー】

覚醒を登る上で問題となったのは頭痛で使うスローパーです。
初登者は直登するラインを目指していたため頭痛のスローパーは選択肢に入っていませんでした。その後の再登者も頭痛のスローパーは使わずに再登しています。

【頭痛のスローパーを使うと選択肢が広がる】

しかし、直登ラインを取ったとしても頭痛のスローパーはホールドとして使えてしまいます。
尚且つ、フットホールドを辿っていくと自然と左に流れ、頭痛のスローパーに至ります。明確に使用するホールドが変わるのであれば別課題として認識できますが、トポにも使うホールドを制限して登ったなどの記述もないことから今のラインを選びました。その後、頭痛のスローパーを使う事で他のライン取りが出来ることも判明しました。

【トポに記載されていない事を読み取る】

現在発行されているトポには不可能スラブにある課題には使うホールドの制限は記されていません。
そのグレードを登るのなら、トポに記載されたライン通り登るのがセオリーなのは理解できます。
が、時として新しいムーヴの発見や使えないと考えられていたホールドが実は使えたということが往々にしてあります。それにより登るラインが多少ズレることも考えられます。
それが誤差の範囲内なのか、違うラインなのか。
僕はその判断を誤りました。

【五段というグレードがついた課題で妥協すべきではなかった】

覚醒をトライするにあたり頭痛のスローパーは手では使いましたが足では使いませんでした。
足でも使ってしまうとグレードがずいぶんと易しくなるのがわかっていたのであえて使いませんでした。
手で使うという妥協はしましたが、これが僕が悩んだ末に出した答えでした。
しかしこの課題は五段。難しさを追求する上でそうした妥協はすべきではありませんでした。

【覚醒は使うホールドを制限した課題なのか】

ロクスノ091号に記事が掲載された後、初登者にこの点を質問し、『覚醒は頭痛のスローパーを手も足も使わない限定』と言うべき。との見解を頂きました。
これに関してはいずれ、何かしらの形で発表して下さると思います。

【発表するということ】

何故ラインが違うのに発表したのか。

それはクラッシュパッドを使わずに登れた事が自分の中で評価できたこと、(当時)ホールドを制限した課題ではなく、スラブの性質や岩の形状から多少ラインがずれるのは仕方ないとの認識から、妥協したがこの課題を登れたと感じたので報告しました。その際、編集部からも頭痛のスローパーに関して使用の有無を問われる事は無く、その後、動画を公開し2年以上このラインについて問われる事はありませんでした。
その後に登った不可能病はクラッシュパッド有りで登ったこともあり報告はしていません。
再登するにあたり何でも記録に残すのではなく、内容も大事との考えからこのようにしています。

【ボルダラーとしてのセンスを問う】

今回、問題が起きた後に『使うホールドを制限した方が良い』となりましたが、さも初めからそれが当たり前だったというような見解がなされたと感じています。もし今後、今回のような問題が起きた場合、再度このような見解になるのでしょうか。そうなるのであればボルダラーというよりクライマーとしてのセンスが問われる人がまた出てしまいます。
センスと言う曖昧な言葉で片付けられてしまう裏にも、それぞれの葛藤や努力があります。
この言葉はこれまでのクライミングを否定されたように感じる方もいると思います。出来るならば、この言葉で締めて欲しくなかったとの思いがあります。
ちなみに僕に関して言えば、今では毎日センスのない人としてジム内で面白がられています。
今後はクライミング能力だけでなくセンスも磨いていきたいと思います。

努力あるのみですね。

【覚醒は逃げ道の無い厳しい最難のスラブ】

今後は『覚醒はホールドの制限がある課題』となりますが、制限があることで逃げ道が無くなり更に魅力ある課題になったのではないでしょうか。
最難のスラブ課題として挑戦する価値は間違いなくあります。

最後に、今回僕はさまざま点で判断を誤り妥協してしまったことで多くの方に迷惑をかけてしまいました。

この場を借りて改めてお詫び致します。

#小川山

ここで感嘆せざるを得ないのは、クライマー自身の葛藤と、自身に「スタイル」に対する真摯な姿勢だ。

「登れた。以上、おしまい」ではなく、そのなかには初登者(その課題を最初に登った人)に対するリスペクトと、自身の求めるクライミングに対する納得感についての葛藤が垣間見える。

「登れるだけのヤツはかっこ悪い」とは、だれか先輩クライマーの言葉だったが(僕なんかからしてみたら、登れるだけでカッコいいのだが)、この強烈な文章を読んで、僕はしびれてしまった。

そして先日の「日経Well-beingカンファレンス」での一コマを思い出した。

今年の3月、日本でもWell-Beingの測定や、新指標の開発、企業・政府・国際機関への提言を目的とした「日本版Well-being Initiative創設」が設立された。

そのキックオフイベントである「日経Well-beingカンファレンス」において、伊藤レポートで有名な一橋大学・伊藤邦雄氏は、アリストテレスからこう引用した。

人間の営為には目的(パーパス)があり、それらの目的の最上位には「最高善」がある。人間にとって「最高善」とは自足的・充足的なのものであり、それが「幸福」である

予防医学研究者である石川善樹氏によれば、Well-Beingとは、
「(いい意味での)自分らしさ」だという。
その「いい意味での」が指すところは、自身のエゴや自己中心性から離れたもの、という意だそうだ。

まさに、宮下 裕樹氏の投稿は、このクライマーとしての「(いい意味での)自分らしさ」、「(いい意味での)クライマーらしさ」を感じさせるものだったのではないだろうか。

アリストテレスからの引用にあるように、
クライミングもきっと、自足的・充足的なものだ。
それは第三者から与えられる評価ではなく、自分の自分自身に対する評価。
それが納得感というものなのだろう。

「自分らしさ」「クライマーらしさ」を問い続けること。それに真摯に向き合うこと。
幸福や、実感としての豊かさ、Well-Beingを考えるうえで、クライマーの考える「スタイル」というものは、それを示唆してくれているのではないだろうか。
クライマーの精神世界は、じつに豊かだ。

そんなことを考えていると「覚醒」の再登者である倉上慶太氏が自身のInstagramで、今回のケースを引き合いに出し、このように投稿していた。
https://www.instagram.com/p/CMqJelnj9FM/

・・・
クライミングは限りなく自由な行為であって、その自由を感じることは私がクライミングに魅かれる側面の一つです。
しかし、グレーディング、ラインどり、スタイル….など、その”自由”に敢えて制限を課すこと(不自由にすること)で新しい発想や価値観が生まれるという化学変化もクライミングにはあるように感じます。

しかし結局はシンプルに自分が納得できるクライミングかどうかが全てではないでしょうか。

嗚呼、僕もそんなセンスが身につけられるよう、今日も登りにいきたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?